オリンピックと偽善

 東京オリンピック北京オリンピックも全く見なかった。その前の大会も、どこだったか忘れてしまったが、見なかった。最後に見たのがどの大会の競技だったか、覚えていない。

 おそらく競技を見れば面白く、興奮したのかもしれないが、オリンピックの「平和の祭典」的な虚飾がイヤで、またそれが建前とわかっていながら持て囃されるのがなんともイヤで、見ていない。

 北京の平和の祭典とやらが終わった途端にロシアがウクライナに侵攻した。平和の祭典が世界平和に大して役に立たなかったことがわかる。まあ、オリンピックが終わるまでロシア軍は行動を差し控えたのかも知れず、その程度の効果はあったと考えるべきか。

 コロナ禍で東京オリンピックの延期や中止が取り沙汰される中、強行したい菅首相(当時)が記者会見で「新型コロナいう大きな困難に直面する今だからこそ、世界が一つになれることを、そして、全人類の努力と英知によって、難局を乗り越えていけることを東京から発信したい」と言い出して、驚かせたことがある。この人は真面目に物を考えているのだろうか、とおれは思ったものだ。記者たちもぼんやりしてないで、「オリンピックが今まで世界を一つにしたことがあるんでしょうか? それはどの大会のどのタイミングでしょうか? オリンピックを開いたら、難局を乗り越えたことになるんでしょうか?」とツッコめばよかったのに。

 オリンピックは、昔は知らないが、今となっては世界平和の理念とは関係がない。世界一を決める巨大なイベントということでしかない。オリンピックの虚飾、偽善がおれはイヤでたまらない。