装置としての宗教

 いきなり何だが、キリスト教の教会というのは装置としてなかなかよくできていると思うのである。

 まず陰影がはっきりしていて、暗い空間に窓からだけ光がつよく差し込む。啓示とまでは言わないが、天あるいは神からの恩寵なり働きかけが光を通じて感じられるようになっている。

 讃美歌は天上の音楽のようにも聞こえ、人を上へと運ぶような響きがある。アメリカのゴスペルなんていうのはいささか強引に神の支配する国に引っ張っていくというか、神の至福による強力な喜びを感じさせる。

 教会の奥には十字架、あるいは十字架にかけられたイエスの姿があって、象徴の力全開で迫ってくる。その前には神父なり牧師なりが立って、神の言葉の代弁者、あるいは解説者として振る舞う。

 教会というのは人をキリスト教のほうに引き込む、あるいは進行を再確認させるような装置としてできていると思うのだ。

 それでは、日本の仏教のお寺がどうかというと、どうも装置としてはキリスト教の教会の出来にはかなわないようだ。

 奥に仏像がどーんと置いてある、なんていうのは教会における十字架やイエス像に似ているけれども、あくまで自分とはかけ離れた「向こうの世界」での姿であって、強く働きかけてくる感じではない。

 ボワーンという鐘の音や木魚のポクポクポク、線香の香りなんていうのはちょっと異世界というか、擬似的に「向こうの世界」を感じさせるようにできてはいて、それはそれでよいものだけれども、キリスト教の教会のようにこちら側に強く働きかけている感じではない。

 そして、坊さんは、神父や牧師のように神の威光を背景にするのではなく、仏様の側を向いて、我々には背を向けている。我々から見えるのは禿頭の後頭部か、それを覆う頭巾だ。おそらくは、仏弟子の代表として師匠に対しているのであって、我々に働きかけるのは説教のときだけである。あの説教がまた義務的なふうというか、決まった「流れ」としてこなしているふうで、働きかけが弱い。そのせいで聞いているこちら側は足の痺れや「この後、何を食うかな」みたいな雑念にとらわれてしまい、なかなか信仰を育てるというふうにはならない。

 別にお寺の悪口を言いたいわけではなくて、ただ、キリスト教圏で教会が今でも日常生活のなかで大きな働きをしているのに対して、日本ではお寺が日常的にはあまり意識されることがないのはなんでかな、と考えているうちに、ふと教会とお寺の装置(仕掛けと言ってもよい)としての違いに思い至っただけである。

 日本のたいがいの人にとって、仏教のお寺は観光で行く場所というだけではないか。法事や葬式ではたいがい向こうから出向いてくれるし。社会における機能が、日本のお寺は小さいな、と思うのである。