ラテンアメリカ小説遍歴 その2

 昨年末以来、ラテンアメリカの小説を読み続けている。1月末に読んだ本を紹介したが、その後に読んだ本を簡単に紹介したい。

 前回の記事はこちら。

 

yinamoto.hatenablog.com

 

 まずはロベルト・ボラーニョの「野生の探偵たち」。

 

 

 

 メキシコとチリ出身の放浪する二人の無名詩人が主人公。小説の中心をなす第二部は、多くの人物のインタビューからなり、彼ら・彼女らの話を通じて、二人の足跡を追う構成になっている。人の人生のさまざまな局面を通じて知る二人の詩人の人生に感慨を覚えた。同時に二人に関わった人々の人生のさまざまなありようも物量として迫ってくる。人生の織物である。

 ガルシア=マルケスの「コレラの時代の愛」(このご時世でつい「コロナの時代の愛」と呼びそうになってしまう)。

 

 

 若い頃に恋に落ちた女性を、五十年以上待ち続けた男と、待たれた女と、その夫の物語。三人の男と女の人生の遍歴だ。ガルシア=マルケスらしい、エピソードにエピソードをたっぷりと塗り重ねて描き上げる油絵のような小説だ。ネタバレになるが、終盤、主人公と年老いた女が結ばれていくプロセスの書きっぷりは見事である。

 カルロス・フエンテスの「澄みわたる大地」。

 

 

 メキシコシティで暮らす人々のストーリー。メフィストフェレスのような悪魔的イメージのイスカ・シエンフエゴスが狂言回しの役をつとめ、没落した旧家の人々、野心満々の企業家、市井の人々、遊興にふける人々など、数多くの登場人物の物語が入り乱れる。後半にはドラマチックな展開を見せ、彼ら・彼女らの生を通じて、大都会メキシコシティの姿が浮かび上がっていく。フエンテスの筆は時に詩的すぎて何を言いたいのかわからないときもあるが、その熱は強い。これを二十代で書いたとは驚きの重厚な小説だ。

「澄みわたる大地」が結構、ヘビーだったので、その次には喜劇的な要素の強い「パンタレオン大尉と女たち」(バルガス=リョサ)を読んだ。

 

 

 主計将校のパンタレオン大尉は軍の性方面のトラブルを抑えるために従軍慰安隊を組織するよう命じられる。生真面目で有能な大尉は見事に従軍慰安隊を組織し、展開し、大成功を収めるが・・・というお話。後半、従軍慰安隊の女性たちと精神的な紐帯を持つに至った大尉の行動と演説は感動的である。バルガス=リョサらしい見事な構成と文章だと感じた。

 ガルシア=マルケスに戻って、自伝「生きて、語り伝える」。

 

 

 ガルシア=マルケスの二十代の頃までが書かれる。「百年の孤独」や「コレラの時代の愛」が案外と実体験に基づいて書かれていることに驚いた。もっとも、お話聞かせてガルシアおじさんであるからして、あちこち話を盛ってるんじゃないか、逆に「百年の孤独」や「コレラの時代の愛」をもとに自伝をつくりあげているんじゃないか、という疑いも捨てきれない。ともあれ、ページをめくるのが楽しかった。

 原題は「Vivir para contarla」。おれはスペイン語ができないが、直訳すると「語るために生きる」ではないか。邦題「生きて、語り伝える」より、お話おじさんガルシア=マルケスらしさが感じられるように思う。

 「生きて、語り伝える」の流れで「百年の孤独」を読んだ。

 

 

 久しぶりに読み直したが、やはり変わらずに面白く、楽しい。マコンドという村を建設し、共に生きたブエンディア家百年の物語。ガルシア=マルケスが次々に繰り出す奇想天外なエピソードにもてあそばれる。おれはやはり、アウレリャノ・ブエンディア大佐が好きだ。そして、ラスト数ページの衝撃!

 あらためて多くの影響を与えた小説だな、とも思う(日本の小説家にも)。文学には詳しくないけれど、二十世紀後半で最も重要な小説なのではないか。

 最後に、ドノソの「夜のみだらな鳥」。これは驚くべき小説である。

 

 

 老婆達と孤児達が暮らす中世そのままのような修道院と、奇形の御曹司「ボーイ」を育てるために作られた奇形の人間の楽園「リンコナーダ」が舞台。エドガー・アラン・ポーの「アッシャー家の崩壊」のような、あるいは江戸川乱歩を百倍したような、ゴシック的でグロテスクで、不思議に魅惑的な世界だ。

 これを読んだ多くの人が「悪夢のような」と形容するんじゃないかと思う。というより、小説の成り立ちが悪夢そのものである。夢では、A→B→Cと出来事の流れがあるとき、A→BあるいはB→Cの流れにはなんらかの脈絡があるが、A→B→Cの全体をつなぐ脈絡はない。この小説も同じで、小さな脈絡がつながってできあがっている。全体として合理的で一貫した世界はない。読み進めるにつれ、状況も、登場人物の位置付けも、経歴も変わってしまう。その、頭がどうにかなってしまいそうな話の連続に身を委ねるのが、なんともコーフン的なのだ。

 悪夢は、見ているときは切迫し、不安である。目を覚ました瞬間にはハアハア息をするような恐ろしさを覚え、そのほんの少し後に悪夢だったのだという安心感を覚える。しばらく経つとコーフン的な世界に自分はいたのだ、あれはコーフン的だったと思う。そういう悪夢の世界に自分の身を置く面白さ、とでもいうか。

 繰り返すが、驚くべき小説である。悪夢に身を委ねたい方はどうぞ。

 今はキューバカブレラ・インファンテの「TTT」を読んでいる。革命直前のハバナの歓楽街を書いた小説だ。ラテンアメリカ小説の遍歴はもうしばらく続きそうである。