“いのち”との距離感

 マグロの解体ショーなるものがある。

 大きな板の上に巨大なマグロを載せて、出刃包丁を腹にぶっ刺し、切り開く。臓物を取り出してから、肉を細切れにしていって、赤身だの中トロだの大トロだのに分けていく。

 なかなかに豪快な、威勢のよい見せ物である。

 それでふと思ったのだが、牛の解体ショーなるものがあったら、どんな具合だろうか。なかなかにゲロゲロなんではなかろうか。

 マグロだとそれほど抵抗がなく、牛だと抵抗があるのはなぜだろう。

 おそらく、我々の中では動物によってやっていいこと、悪いことの位置付け、距離感が違うのだろう。マグロは解体を見てもいいし、食べてもいい。牛は解体を見たくないが、食べるのはいい。犬は解体を見たくないし、食べるのもいけない(地域によるようだが)。

 動物愛護方面の人々はよく“いのち”なる飛び道具的な言葉を使って、動物を殺すこと、食べることへの抵抗感を植え付けようとする。

 しかし、それは随分と恣意的なものであって、おそらくたいていの人は“いのち”なるものとの距離感が動物の種類によって違うのだろう。そうした距離感を動物ごとの種類で記載していくと、進化の系統樹のような樹形図ができるかもしれない。

 ついでに言うと、動物愛護方面の人々の“いのち”なる主張だが、では植物の“いのち”のほうはどうなるんだろうか。稲穂から種(米)をひきちぎったり、大豆を菌に感染させて納豆に変えたり、水中で平和に暮らしている昆布を切り取ったりするのも、“いのち”なる視点を持ち出すと随分残酷と言えそうだが。

 動物と植物は違う、というよく考えるとわからない距離の取り方を、“いのち”なるものを持ち出す人々もやっている。おれは“いのち”という言い回し(たいがい愛護の人々はひらがなにする)に欺瞞を感じてしまう。なんだかとても嫌である。