動物をさばくこと

 ベジタリアンの理屈というのは、わかるような、わからないようなで、考え出すと、いつもぼんやりしてしまう。


 宗教上の理由で菜食主義、という人は、わかる。これは、とやこう言える話ではない。


 そうではなくて、動物を殺すことに不快感を覚える人の場合が難しい。
 いや、本人が不快感を覚えて食べない、というのは勝手であり、問題ないのだが、しばしば、その主張をまわりにも広めようとする。


 まあ、不快感を覚えるんだから、広めようとするのもしょうがないか。


 あるベジタリアンのサイトに、牛をさばく生々しい写真を載せて、「あなたも、この現実にショックを覚えるはずです」というようなことが書いてあった。だから、肉食はやめときましょう、という主張なのだろう。


 んー、しかし、それ、どうなのか、とも思うのよね。


 こっちは牛をさばくところを見慣れていないから、うえええ、と思う。確かにショックを覚える。
 しかし、食肉工場で働く人達は普通に仕事をこなしている。それはそうで、食肉工場の人が牛をさばく度にゲロゲロやっていては話にならない。つまりは、慣れなのだろう。


 ちゃんと調べたわけではないのだが、今の時代は、動物をさばく類の行為を、なるべく人目につかないところに押しやっている傾きがあるかもしれない。
 普段は人目から隠されていて、見慣れていないから、ショックを受けるだけなんじゃないか。


 昔の日本で、猪鍋や狸汁、鶏鍋がどのくらい一般的なものだったかは知らない。
 しかしまあ、それらを料理する人は、たぶん、ゲロを吐かなかったろうと思う。別に皮を剥いだりなんだりを、残酷と思っていなかったのだろう。


 これは余談だが――と言い出すと、わたしの書くことは全編余談なのだが――カチカチ山の狸は、元々、婆さんが狸汁にしようとしたので、反撃した、という話も聞く。
 婆さんは狸をさばく技術を持っていたわけだ。狸からしてみれば、ま、正当防衛である。


 あるいは、魚を三枚に下ろすとか、イカからハラワタを抜き取って塩辛にする、なんていうシーンも、全く見たことがない人が見ると、なかなか強烈かもしれない。


 見慣れてしまえば、特にどうということもなくなる。それは麻痺するということなのか、それとも余計な(もしかすると現代特有の)感傷がなくなるということなのか。
 麻痺していない人間のほうが正しいのか、麻痺していると言い立てる人間が近視眼的で、傲慢なのか。


 牛をさばく。狸の皮を剥ぐ。可哀想といえば可哀想だが、そう捉えるのは人間の了見を押しつけているような気もする。人間が人間に対して抱く感情を動物に拡張しているというか。もしかすると、動物に失礼かもしれない。


 考えてみると、人間は動物の内側のことを、擬人化する以外に理解する方法がない。


 人間の了見をどんどん他のものにも拡張していくなら、植物を食うのはどうなのか。あっちのほうが逃げられないだけ可哀想じゃないか、という意見もある。


 これについては、わたし、以前から作ってみたいムービーがある。
 稲刈りを撮影して、鎌で稲で刈るたびに、稲に「ギャーッ!」と叫ぶ音をつけるのだ。


 これは凄いよー。コンバインでワサワサ刈っていくシーンなんて、正視できないだろう。


 稲には神経がないから動物と一緒にできない、という意見もあるだろうが、それだって、せいぜい人間の知覚の範囲での判断だ。稲には稲の苦しみがあるかもしれないじゃあないか。


 ――とまあ、宗教上のものではなく、主義としてのベジタリアンを考え出すと、話がとっちらかっちゃって、いつもわからなくなる。ぼんやりしてしまう。


 愚や愚、汝を如何せん。

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「今日の嘘八百」


嘘五百八十 モーツァルトの音楽を牛に聞かせると牛がたくさん乳を出すという。あの世で、モーツァルトは「おれは牛の乳搾りのために曲を書いたんじゃねえ」と猛烈に怒っているらしい。