間抜けな日本論

 ある元外交官が書いた本を読んだら、あまりに杜撰な考え方だらけなので、驚いてしまった(紹介するに値する本ではないので、書名は書かない)。

 その人によれば、日本は瑞穂の国で、日本の成り立ちは稲作に始まり、稲作=物づくりの精神が日本を支えてきたんだそうだ。

 もし日本が瑞穂の国なんなら、漁村は、あるいは山の中で木を切り、炭を焼いて暮らしてきた人々はどう捉えればいいんだろうか。鹿児島のシラス大地でサツマイモを育てている人は日本人らしからぬのか。ほとんど米のとれない沖縄は日本ではないのか?

 あるいは、中国南部だって、ベトナムだって、タイだって、東インドだって、バングラデシュだって、北イタリアだって、瑞穂の国ではないのか? それらの地域の物づくりの精神はどうなっておるのか?

 小麦やトウモロコシを代々育ててきた人たちも、物づくりの精神を持っていたのではないか?

 確か、安倍首相の回顧録にも日本は瑞穂の国という主張(信仰?)が出てきた。

 この手の単純な物言いは単純なだけにひっかかってしまう人が出やすいのかもしれない。まあ、間抜けな考え方ではある。

 同じ元外交官の本には、伝統的な制度というのは意味があるから存続している、という主張も出ていた(天皇家の男系存続を主張したいらしい)。しかし、伝統は意味があるから存続しなければならない、というんなら、我々はいまだにチョンマゲに羽織袴か、狩衣か、直垂に烏帽子か、みずらを結っているかしなければならないわけで、伝統には変わるときもある。ちなみに、著者の元外交官の写真はスーツに横分けであった。せめてチョンマゲしていれば、主張に一貫性が生まれるのだが。

 あるいは、伝統的な制度というのは意味があるから存続している、ということは、意味がなくなった、あるいは弱くなった伝統的な制度は変わっても仕方がない、ともいえる。

 この手の間抜けな日本論というのはいくらもある。

 よく出てくるのが日本人は農耕民族というやつで、たいがいは対として欧米人は狩猟民族ということにされる。欧米人に「あなたたちは狩猟民族だ」と言ったらどう反応されるだろうか。爆笑されるか、呆れられるか、「違います」と即座に否定されるんではないか。

 フランスだって、ドイツだって随分昔から農業が盛んだし、狩猟で身を立てている人なんて千年さかのぼったって、大していなかっただろう。

 あるいは日本は農耕民族というのなら(先の漁村や山で暮らす人を丸無視している主張だが)、中国だって、韓国だって、ベトナムだって、タイだって、インドだって、パキスタンだって、イランだって、イラクだって、ロシアだって、エジプトだって、カナダだって、アメリカだって、メキシコだって、ブラジルだって、チリだって、農耕民族である(近代化する前に、農民が多かったという意味では)。彼らはみな日本人と同じような性格を持つというのだろうか。

 この手の間抜けな日本論の特徴は単純だということだ。単純だから、なんとなく当たっているような気になる。血液型性格判断と同じようなものかもしれない。いや、血液型は4タイプあるが、農耕民族/狩猟民族はたったの2タイプだ。あまりに杜撰である。間抜けである。