政治思想について考える

 いきなり物凄いタイトルである。皆さんも驚かれたろうが、おれも驚いた。
 まあ、ネット上なんかでネット右翼はどうの左翼はどうのと醜いラリー(ただし、不特定多数参加)を見かける。あの右翼、左翼というくくりは何なのだろうか、そんな雑なまとめをして実のある話になるんだろうか、とよく思うのである(もっとも、ラリーをしている人たちは必ずしも実のある話をしたいわけじゃなくて、たいがいは罵倒してやっつける快感を味わいたかったり、自我を守りたかったり、愛を確かめたかったりするだけなんだろうけど)。
 そんなこんなで、一度、政治思想というものについて整理してみようかと思うのである。馬鹿のやることだから、大目に見ていただきたい。
 まず、「統制主義」と「自由主義」という縦軸をとる。

 統制主義というのは国の側が個人なり組織なりに「あんた、これしなさい」とか「こういう考え方をしなさい」と指示をすることをよしとする主義である。今の北朝鮮や、戦時中の日本を考えるとわかりやすい。自由主義は国の側が「あんたら、まあ、勝手におやんなさい。その代わり面倒は見んから」という態度で、個人なり組織なりも「わしら勝手にやるけん」と考える主義である。この二つの主義は二者択一ではなくて、中間にいくつものレベルがある。例えば、戦後の日本は平成に入る頃まで民間に対する役所の縛りがきつく、「許認可」や「通達」の名のもと、統制主義が戦中ほどではないにせよ、のしていたと思う。
 で、横軸だが、よく出てくるのは「保守主義」と「革新主義」というものである。

 これなんですがね、おれはどうもあんまりうまくないんじゃないかと思う。というのは保守と革新というのが所変われば品変わるであって、たとえば、中国では保守主義というと、自由市場経済を好まぬ毛沢東以来の統制型体制のことだろう。これは日本で一般に言う保守とは随分思想が違うし、アメリカで「保守主義」というとまた日本とも中国とも違う思想となるだろう。なぜそういうことになるかというと、保守というのは単に以前から主流だったものを続けるという意味であり、革新というのは前と違う思い切ったものに変更するという意味に過ぎないからである。だから、政治思想を整理するうえではあまりよい分け方ではないように思う。
 似た分け方にこういうのもある。

 世の中には「伝統」というだけでヨロコんでしまう人がいるので困るんだが(どこぞの威勢のいいオバハンとか)、何をもって伝統とするかというのは実はとても難しい。伝統的と思われているものが案外と新しいものだったり(神社であげる結婚式なんかが典型的ですね)、現時点での自分たちに都合の悪いものはしれっと伝統から外されてしまったりする。政治思想にしたって、伝統に従うという伝統というのが、五十五年体制的な何かなのか、戦前の体制のことなのか、藩閥政治なのか、幕藩体制に戻したいというのか、税を租庸調で払えというのか、あるいはいっそのこと口分田でも復活させようというのか、どうとでも捉えられてしまう。
 だから、伝統主義とか保守主義、あるいは革新主義という分け方はあんまりよくないんじゃないかとおれは思うのだ。
民族主義」はどう捉えればいいだろう。

 横軸の右側には「国際主義」を置いたが、まあ、「みんな一緒」みたいな意味では的外れでもないかもしれないが、対立概念としてはよくないだろう。「民族」の反対は「国際」ではないからだ。「国際主義」に対置するなら、「国家主義」のほうがよい。

 民族と国家はもちろんだが、全然違うものだ。例えば、アメリカが「わしらアメリカがよくなるなら、後はどうでもいいけん」と考えたら、それは国家主義ではあるが民族主義ではない(そもそもアメリカの中で民族というのは存在するようで入り交じっているようで、非常にややこしい)。ただし、英語のNationalismはどちらにも訳せるから困ったものである(あれ、英語のネイティブの人は困らないのだろうか)。
 民族主義に対置するなら、「平等主義」のほうがまだマシなように思う。

 ここで言う平等主義というのは人間は民族、属性問わず、根本的には同じ扱いにできる、とする考え方である。
 ただまあ、これも実は非常に問題がある。「平等」というとそれだけで素晴らしいことと考えてしまう人がいるが、平等の中身はいろいろである。「法の下の平等」、すなわち、財産も境遇もばらばらでよいが法律は平等に当てはめる、というだけの平等もあれば、「収入を平等にしろ、少なくとも近づける努力をしろ」(格差の是正というやつですね)という主張もある。あるいは機会の平等という考え方もある。しかし、法の下の平等はともかく、財産や機会の平等をやろうとすると、嫌がる人を無理矢理に従わせざるを得ず、統制主義にならざるを得ない。実際的には図の右下のゾーンはほぼあり得なくなるだろう。これは民族主義についても同じで、機会や収入の平等と高レベルの自由主義、あるいは高レベルの民族主義と高レベルの自由主義はおそらく両立できないだろう。
 ともあれ、世に言う右翼、左翼というのはおおよそこんなところじゃないかと思う。

 右翼も左翼も、統制主義寄りである。それが民族主義側だと右翼となり、平等主義側だと左翼となる。
 しかし、上に書いたように平等という概念が非常に多岐にわたるうえ、「民族」という概念も実際には曖昧である。オバマ大統領はどういう民族か? 沖縄のネイティブの人は民族としてどう捉えればいいのか? なかなかそうやすやすとはいかんのである。
 おれ自身は、横軸はこれがいいんではないかと考えている。

 右側の「観念主義」というのは、まあ、言ってみれば、頭の中で組み立てた理屈を主にして制度を作っていこうとする立場、逆に左側の「経験主義」というのはこれまでの歴史的経験をもとにうまくいっている部分は引き継ぎ、うまくいかなかったところは手直ししていく、というような立場である。あえて言えば、こんなふうに図式化できないこともない。

 ただ、特に右翼というのは経験主義によるとばかりも言えないところがあり、やはり右翼、左翼という分け方、言い方は雑で曖昧なので避けた方が良さそうである。主義としてゾーニングするなら、このほうがまだ整理しやすいと思う。

 ファシズム共産主義がある意味、近いことがわかる。特定の考え方、価値観を強制(統制)しようという点では同じである。誰の本だったか思い出せないのだが、戦前の特高にとって本当に脅威だったのは自由主義者(リバタリアニストとアナーキスト)で、共産主義者は案外と体制側に転向させやすかった、という話を読んだことがある。統制主義者という点ではファシスト共産主義者も同じだからなのだろう。「現実」「歴史の蓄積」というものを受け入れれば、共産主義者ファシストになるのである。
 自由主義というのは、「自由」というのがいい響きを持つものだから無批判に素晴らしいものと思われがちなところがあるので気をつけなければならないのだが、一方で各人が各人の面倒を自分で見なければならず、時に重荷を背負わねばならず、ラクではない。インターネットの世界を思い浮かべればよい。インターネットの中はおおむね自由主義的で、勝手気ままに振る舞える反面、突然悪罵を吐かれたり、詐欺に引っかかったりして、しかもその補償が得られるとは限らず、なかなかシンドいところがある。あるいはたとえばポルノが氾濫するなど、見たくないものも目にしなければならない。自由には反面、リスクと無援がつきまとう。
 アメリカでオバマ大統領の医療保険制度改革(公的医療保険制度の充実)に根強い反対があるのは、想像だが、リバタリアニズムを好む人々が多いからではないか。彼らは、自助の精神、あるいは自助の文化が弱まれば大切な何かが失われる(その何かを日本で生まれ育ったおれはうまく実感できないのだが)と経験的に感じているのではないかと思う。
 なお、少々蛇足だが、アナーキズムは「無政府主義」と訳される。実際には、必ずしも政府を無くそうというわけではなく、政府の「関与」をなるべく少なくしようという考え方である。誰が訳したのか知らないが、随分、誤解を招く訳語である(もしかしたら、わざとだったのだろうか?)。
 おれ自身は心情的にはリバタリアニズムのちょっと上くらいを好んでいる。統制主義は勘弁してほしいし、観念主義、すなわち人間の頭の中だけで組み立てた理屈はあんまり信用していない。随分と頭のいい人たちが作った社会主義国家がおおよそひどい末路をたどったのを見ると、理屈というのはいろいろ穴があり、それを現実に当てはめると穴がどんどん広がって、決壊するものだと考えている。頭のいい人たちの理屈を馬鹿の人たち(おれのような)の理屈が後押しするとなれば、なおさらだ。