日本で生まれ育った人が日本を愛することについて

愛国心」と言うと、いきなり目のツリあがる人がいる。そういう人は、たいがい目のツリあがった途端に耳から脳への情報経路が特定のものに限定されてしまうようだ。平たく言うと、「耳をふさぐ」というやつである。習い性となっていると簡単には直らないだろうから、まあ、お互いなるたけ別々のところで生きていこう。

 前置きが多くなって申し訳ないのだが、タイトルに「日本で生まれ育った人」と書いた。「日本人」と書ければ簡単なのだが、「日本人」というのは意味が曖昧で困る。大きく分けて、「日本国民」という意味と、「日本民族」という意味があるが、前者は国籍の問題であるし、後者は文化の問題で、両者は別の話だ。さらには「日本民族」というのも曖昧であって、たいていは大和民族のことを指すようなのだが、たとえば、沖縄をどう捉えればいいのか、あるいは日本に移り住んで三世、四世の人はどうなのか、と考え始めると心もとなくなる。なので、いささか長ったらしいが、ここでは「日本で生まれ育った人」と書くことにする。

 さて、ようやく本題なのだが、「日本には他国と比べてもあらゆる面で優れた文化があり〜」などと書く人がよくいる。その人はどうやら、だから日本に誇りを持て、日本を愛せよ、と言いたいらしい。2つの点でおかしいんじゃないかと思う。

 まず、文化というのは優劣を比べられるものではないという点だ。内容の比較はできるが、科学技術レベル(文明)と違って、どちらが優れているという類のものではない。優劣を比べ始めると、陥穽にはまってしまう。

 たとえて言えば、味噌汁とポタージュのどちらが優れているか? という問いが空しいのと同じだろう。味噌汁には味噌汁のよさ、ポタージュにはポタージュのよさがあるのであって、優れた味噌汁・ポタージュはそれぞれ結構だし、まずい味噌汁・ポタージュはそれぞれまずい。料理の中での位置づけや作り方など内容の比較はできるけれども、優劣という量の比較は意味がない。あとは好みの問題があるだけだ。自分が幼い頃から慣れ親しんでいるからといって「味噌汁のほうがうまい!」と言っても、それはその人の好みであって、子どもの頃からポタージュで育った人は「ポタージュのほうがうまい!」と主張するかもしれない。そこで議論したところで、まあ、空しさを前提にしたうえでの屁理屈を楽しむことはできるかもしれないが、ちゃんとした結論が出るわけがない。

 もうひとつ、日本には優れた文化がある、だから日本を愛せよ、という主張だが、順番が違うと思うのよね。

 おそらく、その人は日本を愛しているから、日本には優れた文化があると強く感じたいのだと思う。子どもが父母の自慢をするのに似ている。子どもは、父母を愛しているから、しばしば父母が優れていると他の子どもに主張しようとする。相手の子どもだって同じ気持ちだから、かくして、

「おれのお父さんなんて給料100万円もらっているんだぜ!」
「おれのお父さんなんて会社持ってるんだぜ!」
「おれのお父さんなんて会社100個持ってるんだぜ!」
「おれのお父さんなんて会社1万個持ってるんだぜ!」

 などというガキの口げんかの泥沼にはまってしまうのである。

 家族を愛する気持ちというのは、別に家族が優れているから生まれるものではない(優れている云々が愛情の要件だとしたら、おれはどうすればいいのだ)。日本で生まれ育った人が日本を愛する気持ちというのも、別に日本が優れているから生まれるわけではない。そこで生まれ育ったからそう感じるのであって、「優れているから云々」と自分に言い聞かせることは、まあ、愛情の確認くらいには役立つかもしれないが(「でも、あの人だっていいところがあるのよ」のような)、基礎ではないし、基礎にすべきものでもない。

 優れているから愛するなんて、スポーツ万能のAクン、勉強のできるBクンに憧れる女子中学生とさして変わらないと思うのよね。