先週末に京都、奈良へと行ってきた。
少し前に仕事の関係で西岡常一の「木に学べ」と西岡常一・小川三夫・塩野米松の「木のいのち木のこころ」を読むことがあり、あらためて京都、奈良の古建築を見たくなったためだ。西岡常一はすでに亡くなったが、法隆寺の有名な宮大工であり、小川三夫はその唯一の内弟子である。
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電車で移動しながら「木に学べ」「木のいのち木のこころ」を読み返し、実際に建築を見てみるという有意義な旅行だった。
どちらの本も二十代の頃に読んで心動かされた記憶がある。この年になって読み返してみると、馬鹿は馬鹿なりに少しは経験を積んだところもあるのか、二十代の頃にはぴんとこなかった部分がわかったところもあった。
西岡常一を執念のように仕事に向かわせたものは、おそらく、尊崇の念だろうと思う。それは仏への尊崇であり、法隆寺を建立した聖徳太子への尊崇であり、法隆寺という建物とそこに使われている木の一本一本への尊崇であり、そして代々寺々を造り、守ってきた過去の宮大工たちへの尊崇であったろう。
法隆寺に行くと、やはり、その太い古木の組み合わせからなる偉容に圧倒される。回廊で囲われた伽藍は一種、曼荼羅のような別世界のようでもある。一方で、柱や連木に目を近づけると、古代の宮大工たちの、一見粗削りなようで(何しろ飛鳥時代には鋸もなければ台がんなもなく、斧で木を割って、槍がんなで彫るように削っていたのだ)気の籠った仕事ぶりも理解できた。
古朴ながら堂々たる伽藍を前に、派手ななりをして、わーわー大声でしゃべりながら歩いている一団がいた。若い男や娘たちがVサインしてスマホで撮影していた。
西岡常一は「木に学べ」のなかでこう言っている。
いろんな人が、ぎょうさん法隆寺を見にきますが、ただ世界で一番古い木造建築だからって見にくるんじゃ、意味がありませんで。古いだけがいいんやったら、そこに落ちてる石ころのほうが古いんや。法隆寺は千三百五十年、石ころは何億年や。
だから、古いからここを見にくるんじゃなくて、われわれの祖先である飛鳥時代の人たちが、建築物にどう取り組んだか、人間の魂と自然を見事に合作させたものが、法隆寺やということを知って見にきてもらいたいんや。
「木のいのち木のこころ」には弟子入り志願中の小川三夫に西岡常一が送った手紙が載っている。観光客に向けた言葉は激しく、ほとんど罵りである。
御命(おおせ)の如く大和路は春たけなはですが、観光客でごったがへし、千年の聖地法隆寺は塵芥と俗臭にみちてゐます。聖徳太子 伽藍創草の聖意は、三宝によって国土開発、民生の安定をこいねがわれの事です。此の精神を識ろうとしない観光の人々、法隆寺の建築も仏像も本当にわかるはずがありません。
柱を撫でてみた。槍がんなで削った跡は、台がんなのようにつるつるではなく、彫刻刀で削ったように表面がえぐれている。木は優しく温かく、単なるおれの思い込みかもしれないが、何かが伝わってきたような気がした。