急に悪口を書きたくなった。まあ、読んでいてあまり気分のいいものではないだろうが、ご勘弁いただいたい。
小林信彦が「名人 志ん生、そして志ん朝」(文春文庫、ISBN:9784167256197)という本を出している。
タイトル通り、古今亭志ん生、古今亭志ん朝、親子二代の名人について書いた本で、なぜだか夏目漱石の「吾輩は猫である」論もくっついている。
わたしにとっては、あまり面白い本ではなかった。志ん朝の評伝として読むのなら、ちょっと青臭いところはあるけれど、「花は志ん朝」(大友浩著、河出文庫、ISBN:4309408079)のほうがずっとよくまとまっていると思う。
小林信彦には、横山やすしや渥美清について書いた本もある。やすしや渥美清との個人的交流を軸にして書いているので、貴重なエピソードが含まれていて、面白い。
しかし、志ん朝にはほとんど会ったことがないようだ。
「名人」では、東京の下町で幼少期を過ごした自分の思い出から始まって、あくまでファンとしての志ん生体験、志ん朝体験を書いている。特に志ん朝についてはメロメロで、ほとんど溶けかけている。
志ん朝に入れ込むあまりなのかどうか、時折、立川談志に対する悪口が、トゲのように混じる。これが強烈に嫌味なのだ。
志ん生のテープやCDがいまだに売れつづけているのは驚くべきことだが、大したこともない落語家がCDや本をやたらに出すのは、みっともない。
名指しではないが、談志のことを言っているのはすぐわかる。
本筋に関係あるわけでなし、わざわざそんなこと書かなくても、と思うのだが、小林信彦はよほど談志が嫌いなのだろうか。
こんなのもある。
志ん朝さんの不幸は、なんたって、ライヴァルがいないことである。ライヴァルがいないのは、芸の世界では、どうも良くない。良くないけれども、これは仕方がないですな。<志ん生になったつもり>の自称天才はいるとしても、実質がともなわない。
この後が凄い。
そうした<一山いくら>の芸人に対して、志ん朝さん、特にその独演会は、入場料を一万円ぐらいとってもよいのである。
一山いくら、って……。
これはあくまでわたしの想像だけれども、たとえ談志が自分を「天才」と呼ぶことがあるとしても、それは自我、自尊心、自信と、不安、自省、洒落、それから照れ隠しがないまぜになってのことなんじゃないか。
少なくとも、小林信彦が書いているほど、ノーテンキな人とは思えない。
あとがきから。
(稲本註:志ん朝の対談に)父・志ん生の芸を真似る落語家が、「乱暴なやり方をすると志ん生に近いかなという考えをひょっとすると持ってるかも知れないんですね」という正直な感想が出てくる。
大好きな志ん朝が、談志について、批判ともとれることを語っているせいだろうか。鬼の首でもとったように引用しているのが、妙にほほえましい。
ま、しかし、談志が志ん生のことを尊敬して、その芸から何かを学んでいるのは確かだろうけれども、単純にマネしようなんてふうに考えるだろうか。
小林信彦は、落語ファンというより、志ん朝ファンのようだ。
それはいいのだが、志ん朝を絶対的基準にして、落語全てを語るのは乱暴だろう。
志ん朝さんの死によって、東京(江戸)の落語はほぼ終ったと見るべきだろう。
東京の下町言葉を地盤にした落語という意味では、あるいはそうなりゆくのかもしれない。
今、生活の言葉として下町言葉を操るガキはいるのだろうか。
しかし、次のはさすがに言い過ぎである。
関西の落語会は桂米朝という指導者のもとで、これからのびてゆくのでは、と思われる。
しかし、東京はムリだ。江戸弁といわぬまでも、東京弁(アクセントほか)が怪しい人々がいくら集まっても大衆を魅了することはできないのだから。
「大衆を魅了」ではなくて、「僕を魅了」の書き間違いだと思うのだけれども。
あの世で志ん朝師匠も困っているかもしれない。
悪口に対する悪口デシタ。
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「今日の嘘八百」
嘘五百十八 蝉が狂ったように鳴くのは、何年も土の中でストレスをため込んでいるからである。