さて、故人の欠席裁判だが、終わったことだから、話し手の都合のいいように語れるのだが、そこはそれ、この間まで“そこにいた人”だ。
褒めるにせよ、けなすにせよ、言う側、聞く側に、何か“気”が残る。
「戦前にはブシドーというものがあって、それはもうよかった。素晴らしかった。品格があった」なんぞのように、あっけらかんとは言えないのだ。
どうも、この故人への遠慮、ひっかかりが幽霊になるんじゃないか。
特に、故人が憾みを飲んでいた場合や、心残りのまま死んでいった場合、生きている人間の心のどこかに、そのことが残される。
あるいは、もし自分があんな心持ちで死んだら、という連想も働くかもしれない。
故人に悪さした人間なら、なおさらわだかまりが残るだろう。
たとえ、「ああ、死んでくれて助かった」と思っていても、心の中というのは複雑だ。自分でも見えない部分がたくさんあるから、そう簡単には割り切れない。
そうした生きている側の人間の、心の中に残った陰りの部分が、幽霊の正体ではなかろうか。
言うなれば、幽霊とは過去の現在に対する復讐である。
うーん、キマったぜ。思いつきだけど。
まあ、本当のところは、もちろん、わたしなんぞの手の届くところではない。
こんなこと書きながら、ホントはもう幽霊かもしれないしねえ。
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「今日の嘘八百」
嘘三百六十一 昨日食ったブリの幽霊が窓から中を覗いている。