啄木の伝記を読むと、ダメ人間が世間的な責任を負わされて、一方で夢見がちでもあり、女郎買い好きでもあり、妄想はふくらむものの、短歌以外の書くものはとんとモノにならず、何だかうまく行かなくって、そのうち病気で死んじゃった、と、そういうことだったようだ。
誰そ我に
ピストルにても撃てよかし
伊藤のごとく死にて見せなむ
伊藤は伊藤博文のこと。啄木には英雄志向もあったらしい。現代のイスラム社会に生まれれば、自爆テロをやるかもしれない。ちょっと前の日本の側なら、人間の盾か。
よくいますよね。自我が肥大して妄想はふくらみ、自我が肥大しているからA(C)*1でもあり、夢はいろいろ見るものの、現実のほうはあんまり見ない(あるいは、勘違いして見てしまう)人。啄木も、そういう人だったのではないか、と思う。
啄木の歌に感動する、というのは、ダメな人が作ったダメについての歌にダメな人が感動する、ということではないか。
わたしも相当ダメだから、何となくわかる。
まあ、人間のいかんともしがたい部分に涙する、というのはある。いろいろ考えはするものの、大勘違いばかりのナサケナサ。わかるぅ?
ただ、そこで深刻方面へ行っちゃうか、これは何ともダメだねえ、ダメですなあ、アハハ、となるかは、ま、人によっていろいろだろうけれども。
啄木は、死後、文学史上の有名人になってしまって、教科書なんかにも取り上げられるようになったから、生真面目にとられすぎているところがあると思う。
あの人の短歌のテーマというのは、貧しさとか故郷への思慕とか叶わぬ志なんぞではなく、いや、それもまあ、表面的にはあるんだろうが、ズバリ、「いかんともしがたいダメさ」。これでどうだ。
ダメなやつのダメについての歌が、心のダメさに響く(こともある)ってことでいいんじゃないか。ダメ?
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「今日の嘘八百」
嘘三百七十三 われ泣きながら蟹をほじくる
*1:エーカッコしぃ