敬語の濫用

 まあ、しかし、実際には、敬語を選ぶのがメンドくさい、あるいは、とりあえずそう言っておきゃいいんだろ、あるいは、口癖になっているわけでして、なんていう心の働きも、あるのだろう。


 よく、「敬語の濫用」が取りざたされる。「させていただく」の氾濫もそのひとつだ。


 この問題、でも、なかなかムツカしいのよね。


 例えば、源氏物語の最初のほうに出てくる文章。


ある時には大殿籠もり過ぐして、やがてさぶらはせたまひなど、あながちに御前去らずもてなさせたまひしほどに、おのづから軽き方にも見えしを、この御子生まれたまひて後は、いと心ことに思ほしおきてたれば、「坊にも、ようせずは、この御子の居たまふべきなめり」と、一の皇子の女御は思し疑へり。


 敬語だらけである。


 これを読んで、まずわたしが思うのは、「気取りやがって。紫式部をケ飛ばしてやりたい」という、実によくない心なのだが、それはまあ、置いておく。


 平安の王朝の人々の敬語感覚(特に身分感覚。秩序に対する感覚といってもよい)と、今の敬語感覚では、千年の時を経てずいぶんと違ってきている。


 こういうのは、慣れの問題、というしかなく、人によって慣れの程度が違うから、いろいろとやかましいことになる。


 誤用したり、テキトーに使ったり、怒ったり、怒られたり、ぶつかったり、反省したり、慣れたり、嫌ったり、ケ飛ばしたりしながら、人々の間で言葉は変わっていくわけで、結局、まあ、各人勝手にやるしかないのよね。


▲一番上の日記へ

                  • -


「今日の嘘八百」


嘘二百五十九 真心込めて敬語を使うようにしたら、日本語から敬語がなくなってしまったという。