言い換え

 ブログを途中で読みやめてしまうことがある。


 特に最近、そういうことが多くなった気がする。元々わたしが短気で面倒くさがりのうえに(厄介だな)、脳味噌が怠け者と化してきたからかもしれない。


 読みやめる理由はいくつかある。


 書かれている話題に興味が湧かない、あるいは読んでいる間に興味を引かれなかった、というのは多い。
 あるいは、話には興味があるんだが、何だか言葉がムツカしくてヤんなった、とか、文章がこなれてなくて読んでいて疲れる、という場合もある。


 わたしに辛抱がないのは置いとくとして。


 人それぞれ、好みの文章のスタイル、慣れ、手癖、頭の中で渦巻いている言葉のタイプが違っているから、まあ、相性は大きい。
 相手の書いた文章と読んでいる自分の相性が合わなければ、これはもうしょうがない。


 それとは別に、言葉に気を遣わないで書いたせいで、せっかく面白いことを考えていそうなのに伝わらないこともある。そういう文章を読むと、もったいないなあ、と思う。


 あるいは、無理してムツカしげな言葉を使っている文章も見かける。わたしが言うのもなんだが、難解な言葉を振り回すことと、高いレベルの話をすることは別である。


 自分の書く文章がこなれていない、言いたいことがうまく伝わっていないように感じたら、別の言葉に言い換えてみるのもいい。ちょっと手間はかかるが、その分だけ得るものはあるはずだ。


 特に、硬い言葉を、日常会話で使うような言葉に置き換えてみると、ぼんやり考えていたことが自分の中でうまく収まったり、実感を持って味わえたりする。
 大げさにいえば、観念的なリクツ、書生論だったものが血肉になるというか。


 例を挙げると、「具体的には」なんて言葉を書いたとする。「具体的」というのはそんなに特殊ではないけれども、やや硬めの言葉だ。
 これを「例えば」とか、「実際には」とか、「早い話が」と言い換えてみる。


「他者との親和性に欠ける」なんていうのは、「人となかなかなじめない」でよかったりする。


「妊娠する蓋然性が高い」は、「妊娠する可能性が高い」でも、「子供ができることが多い」でもいい。「下手すりゃ、ガキぃひり出す」じゃあ、ちょっとガラが悪すぎるが。


 ふと「蓋然性」で検索してみたら、裁判のこんな判決文に出くわした。


稼動に係る逸失利益は、被害者が事故に遭遇したために死亡し、又は身体に後遺障害が残存した場合、事故に遭遇しなければ被害者が稼動能力を発揮し、被害者が将来稼動の機会を得る蓋然性が認められる場合には当然に算定されるべき損害賠償費目であるということができる。


 さすがにこんなのになると、言い換えるのも骨だ。読んでいるだけで、脳味噌が止まる。
 まあ、大ざっぱにいえば、「将来、働くこともありそうだったんなら、その分も損害賠償として考えとけ」ということではないか。知らんけど。


 もちろん、ムツカしい言葉にはムツカしい言葉なりのニュアンスや効果(エラソーに見せられるとか)がある。何でもやわらかく言えばいいというものではない。人それぞれの勝手ではある。


 わたしがこの日記に書いている文章だと、だいたい、男性週刊誌レベルの言葉遣いではないか。そんなに意識しているわけではないけれども、そのくらいの言葉遣いですんなり読める読者を考えているようだ。

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「今日の嘘八百」


嘘四百十一 あたしなんざ、怠惰のせいでどれだけの逸失利益を生んだことか。