シソーの言葉

 十代後半から二十代前半頃というのは、結構、哲学をはじめとする思想に、はまりやすい時期のように思う。


 十代前半はムツカしい理屈に慣れていない。
 二十代以降になると、仕事やなんだと忙しくなり、また現実の曖昧なところを曖昧なまま受け入れられるようになって、だんだんと思想的なものから離れていく。早くいえば、“それどころでは”なくなる。


 十代後半から二十代前半の人が思想に憧れる理由は、いくつかあるように思う。


 まず学問上の関心を抱く人がいる。他の人が理学や数学に興味を持つのと同じように、哲学をはじめとする思想的なものに興味を持つ。


 自分自身に切実な問題を抱えていて、その原因なり解決なりを探ろうと、思想に入っていく人もいる。大きなところでは、差別や虐待の体験を持つ人が例に挙げられるだろう。


 それから、何となくカッコよさげだから、というのもある。


 恥を忍んで白状すると、大学に入った頃のわたしがこれであった。当時、シソー(あえてカタカナで書くが)的なものが流行りだったせいもあるのだろう。


 でもって、その手の本を読んで、ほとんど何も理解できず、オロカなる男のアサハカなモクロミはあっという間に粉砕された。


 それから幾星霜。
 ぼんやりとでも生きていると、いくらかは見えてくることというのもある。


 わたしが当時、思想的なものを理解できなかったのは、一番は頭が悪いからだが、二番目には言葉のムツカしさ、わけのわからなさが挙げられると思う。
 ちなみに、三番目はガッツの不足である。


 自分が物を書いて日ゼニを稼ぐ商売をしているせいもあるが、哲学をはじめとする思想方面の人には、言葉に無神経な人が多いように思う。
 特に翻訳にひどいものが多い。


 例えば、「実存」なんていうのがある。実存主義という流派で有名だ。


 英語でいえば“entity”で、これ、存在とか実体と訳しておいても、別に問題はなかったんではないか。
実存主義」と「実体主義」なら、「実体主義」のほうがはるかにわかりやすい。


 要は、神様とか、多分に想像されてきたものはとりあえず無視して、まずは自分達、実際に存在しているもの、殴られれば痛いし、撃たれれば死んでしまうものを重視しましょう、ということだろう。


 その「実」際に「存」在している、から「実存」としたのだろうけど、そんな勝手な縮め方はないだろうと思う。
 もう明治時代ではないのだから、どんどん訳語を作っていっていいというものではない。


 それとも、新しい訳語を作り出すことに価値を見出しているのだろうか。
 また、そのわけのわからない言葉を、得意気に振り回す連中がいるから迷惑する。


 ハイ。いささか悔し紛れに書いております。


 あとは何だ。「用材性」なんていう言葉を何となく覚えている。これ、わかる人、どのくらいいるのだろうか。


 訳語もあれだが、哲学書の翻訳文のヘタクソさといったらない。「これ、訳している本人もわかってないのではないか」と感じる文章にぶつかることもあった。


 いっそ、哲学しかやってない人間は翻訳するな、と言いたい。
 いや、それはさすがに言い過ぎだが、本として売るなら、せめてプロの翻訳者か、思想方面だけに凝り固まっていない編集者に一度、訳文を見てもらってもいいように思う。


 お金がないんだろうけど。


 ハイ。ワタクシ、今、人を引きずり下ろす暗い喜びにうち震えております。


 ヘタクソな文章を書いて平気でいられるシソー方面の人には、この二文字を贈りたい。


 親切。


 三文字ならこうだ。


 人の道。

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「今日の嘘八百」


嘘五百四十六 落胆で思わずしゃがみ込む姿をガックリ腰と呼ぶ。逆転弾を浴びたマウンド上のピッチャーによく見られる。