大いなる時

 今日はもろにシモの話。ボカシ一切なしである。
 一週間の始まりからいきなり申し訳ない。その手の話が苦手な方はどこかで暇でもつぶしていていただきたい。


 え、何? よっぽど暇じゃなきゃ、こんなとこに来ねえ? ア、ソウ。


 誰のエッセイで読んだんだったか、インドでは大を外でするという。あるいは、地域や貧富にもよるのかもしれない。


 朝方、外に人々が大勢出てきてしゃがみこみ、大便をする光景は、実に壮観なものだそうだ。


 で、その人は、人間が大をするとき、顔がこう、眉根を寄せ、いささか苦悶混じりに深く思考する、哲学するような表情になることに気づいた。


 だから、インドでは、朝になると、大勢の人々がしゃがみこみ、いっせいに哲学にふけるところを見られるという。


 わたしはあまり他人が大をするところを見たことがないが、なるほど、哲学するような表情になると言われれば、そうかもしれない。


 有名な「考える人」の原型となった、ロダン地獄の門」である。



地獄の門」(「考える人」部分)


 もちろん、この人は“考えている”わけであって、大をしているわけではないと思う。たぶん。
 しかし、表情だけでは違いがわからない。


 不思議なもので、同じ用を足すのでも、小のほうは、特に男の場合、のんきなものである。
「♪フンフ〜ン、フフフフ〜ン」などと鼻歌交じりに、あるいは横に立っている友達や同僚なんかと話ししてケラケラ笑いながら、用を足す。


 反対に、大爆笑しながら大便する、という人は、まずいないのではないか。


 なぜ人は、大をするとき、眉根を寄せ、いささか苦悶混じりに哲学するような表情となるのか。


 しかし、実は逆なのである。


 哲学するとき、人は大便する顔をしているのだ。

                  • -


「今日の嘘八百」


嘘五百三十三 哲学とは思考の便秘である。