賢弟の将棋

 昨晩、NHKの「プロフェッショナル」という番組で、森内俊之羽生善治名人戦を取り上げていた。


 わたしの顔は、羽生善治に似ていると言われることがある。鏡を見ると、自分でも似ている、と思う。そうして、勝手に親近感を抱いている。


 関係ないが、わたしの父の顔はサッカーのオシム監督によく似ている。もちろん、父はボスニア・ヘルツェゴビナ人ではない。身長はオシム監督の4分の3ほどだ。
 オシム監督から羽生善治が生まれるのだから、顔の造作というのは摩訶不思議である。


 もっとも、わたしが羽生善治と似ているのは顔だけであり、知能はおそらく4分の1程度、集中力に至っては10分の1程度だろうと思う。
 羽生善治はわたしの4つ下だから、彼の顔を見る度に、「愚兄賢弟」という言葉を思い浮かべる。


 番組は、名人戦の全6戦を順に追いながら、2人の間にどういう駆け引きがあったかドキュメントするというものだった。
 しかし、残念ながら、ナレーションによる説明と、2人の表情の変化、解説室に控える他の棋士達の反応以外、何が起きているのかよくわからなかった。
 あれでは、入試に挑む受験生をドキュメントしても、さほど変わらなかったのではないか。


 まあ、そもそも、将棋は複雑すぎる。
 わたしは、“この世には定石なるものが存在するらしい”ということを知っている程度で、プロの対局となると、盤面を見ても、何がどうなっているんだかさっぱりわからない。


 2人の対局の様子を見ながら、“野球をよく知らない人が野球の試合を見たら、こんなふうなんではないか”と思った。


 ある程度野球に慣れていれば、プロ野球の試合で1点を争う7回に1アウト・ランナー1塁なら、攻撃側にどういう選択肢があるか、すぐにいくつか想定できる。
 あるいは、初回からバントすれば、チームの監督がどういうプランでその試合に臨んでいるのか、おおよそ想像できる。


 しかし、野球をよく知らない人が同じ場面を見ても、せいぜい、打った、走った、ベンチに帰った、と目の前に起きていることをぼんやり見ているしかあるまい。


 将棋も同じで、わたし程度だと、あ、眉根を寄せた、あ、天を仰いだと、ただ対局者の表情の変化でも見ているほかない。おそらく、大半の人がそうだろう。


 肝心の、盤面で何が起きているかを理解するには、観戦者にそれなりの修養が必要で、そこまで入り込める人は、パーセンテージではそういないだろうと思う(わかれば面白いんだろうが……)。


 将棋は、飛車を取られた、うっひゃあ、などと騒いでいるうちは間口が広いが、その次の段階に行くと、急に狭くなる。レベルが高くなればなるほど狭くなり、何が起きているのか理解しがたくなっていく。


 想像でしか語れないのだが、森内俊之羽生善治の対局を見て、その面白さを本当に味わえる人はさほどいないのではないか。


 そういう意味では、将棋は、活字はともかく、イッパンタイシューを相手にするテレビには不向きなジャンルだと思う。
 番組司会者の、「いやあ、凄い対局でした」というコメントが白々しかった。


 ところで、森内俊之も、羽生善治も、もう少しテレビ慣れしてもよさそうなものだが。
 2人とも、テレビカメラを向けられるとあがってしまうのか、“誠実な普通にいい人”に見えてしまう。


 時折、ムム、と思わせることを語るが、全般的には、自分達が見ている世界を、言葉で上手く表現できないようだ。棋士は、盤上でしか表現できないということなのだろうか。

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「今日の嘘八百」


嘘七百九十 自分でも何が言いたいのか、よくワカリマセン。本当は言いたいことなどないのかもシレマセン。