ニヒリズム

 ニヒリズムというのは、建前のうえではあまり評判がよくないようだ。


 えーと、ここで言うニヒリズムは、哲学とかシソーのほうにある(らしい)たいそうなもんのことではない。そんなもの、わたしの手に負えるわけがない。
 冷笑的とか、斜に構えているとか、せいぜい、そんな程度のことだ。


 建前のうえで評判がよくないのは当然で、例えば、学校がニヒリズム的態度で生徒達を教育しだしたら都合が悪い。


「フッ。これから積分ってのやるけどさ、言っとくけど、キミ達の95%にとって、将来、何の役にも立たないから。私も教えたくて教えんじゃないから。フッ」


 などと教師が言い出すと――まあ、そういうことも中にはあるのかもしれないが、学校全体がこういう教育的態度を取り出すと、いろいろ都合が悪い。
 ああいうところは、やはり、清く正しくガンバっていただきたい。


 新聞がニヒリズム的態度になる、というのもマズい。
 社説やなんかで、「地域振興はやるだけ無駄である。そこで座して死を待つべきである」などと書いてはやはりいかんのであって、新聞というのは、政府や官僚をテキトーに叩いてみせつつも、何かよくなる道はあるはずだ、と見せ(かけ)なければいけない。


 会社で社長を初めとする重役連がニヒル、というのもいけない。


「あー、うちの会社、何やったって、伸びないから。事業に社会的使命なんか、なーんもないから。だいたい、受話器の臭い消しなんて、世の中になくったって、別に誰も困んないんだから。社員のミナサンも、ま、勝手にやってくらはい」


 これでは、ニヒリズムというより、投げ遣りか。


 しかし、こういうのは、多分に建前のうえでの話であって、実際は、ニヒリズムというのは、結構、ウケる。


 ウケるには、2つのパターンがある。


 いささか安いほうは、ニヒルな仮面の下に実は温かい心を湛えていた、とか、ニヒルな人間がある事件をきっかけに劇的に変わった、というパターンで、まあ、こういうのはわかりやすい。


 オハナシとしては、温かい心が主眼なのであって、それを引き立てるためにニヒルを使ってるわけだ。白を目立たせるには、黒の中に置けばよい、というようなものである。


 もうひとつは逆で、穏和な表情の奥に冷たい刃を隠している、というもので、これもなぜだか魅力がある。人の心の不可解さみたいなものを感じさせるからだろうか。


 ともあれ、ニヒルが表でも奥でもいいが、温かい何かと組み合わせないと、ウケない。陰陽あい揃って成り立つ。


 ニヒルな仮面を外したら、実はやっぱりニヒルでした、というのは、あまりウケがよくないようだ。フッ。

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「今日の嘘八百」


嘘七百二十九 地球温暖化への対応は、進行に応じて、全員で少しずつ北にズリズリずっていくのがよいと思います。