つらつらと「家族愛」について考えているうちに、体臭や親父のいびきを経由して、我がニッポンのここ千数百年の歴史に考えは及び、現代の文化的状況にスルドくもテキトーに切り込む、という事態に至った。
何のことかわからないだろう。わたしにだって、わからない。
ままよ*1、順を追って思い返してみる。
「家族愛」といっても、わたし自身のそれについて考えていたわけではない。そんなもの考え出した途端、東西南北各所に謝らなければいけないことになる。
日本語には漢語と和語があって、漢語は中国由来、あるいはそれをマネて日本で作った言葉のことだ。和語のほうは漢語が入ってくる前からの言葉、およびそれが変化した言葉である。
漢語は、和語に比べて、一般に実感、あるいは肉感に欠けるんじゃないか、というのがわたしの感想だ。ここで「家族愛」というものが出てくる。
家族愛。いきなりそんなものを説かれても、たいがいの人が困るか、首から上で納得するか、あるいはぼんやりしてしまうんではないか。ある意味、人類愛と同じように、遠い感じがすると思う。
じゃあ、その正体はというと、妻、夫、父母、兄弟、祖父母、孫の体のにおいや、抱きしめたときに体に伝わってくる感じや、ヨッパラって寝てしまった親父のいびきやなんか、案外にありふれたものから成り立っているように思う。
家族愛と親父のいびき。前者はいかにも漢語で、後者はいかにも和語だ。
どうも和語というのは物事をひとくくりにして、ガバッとつかむのが苦手らしい。漢語流の堅苦しい言い方をすれば、抽象が苦手なようだ。もっぱら、半径3m以内を得意とする言葉である(「山」とか、「遠いところ」と言われると困るけど)。
その証拠に、「家族愛」を短い和語で言い換えるのは難しい(わたしには思いつかなかった)。
逆に漢語は抽象が得意なようだ。
何せ、中国で孔子様が生まれたのが紀元前6世紀である。日本では弥生時代に入るか入らないかというところで、稲を植えるの植えないのと騒いでいた頃だから、その差は大きい。
最初の遣隋使が中国に出かけていって、まとめていろいろもらってきたのが紀元600年頃。孔子様の時代から千年以上経っている(今から千年前というと、平安時代だ)。
その隔たりを埋めるのは大変だから、概念的な話をするときは、当時の中国語(漢語)をそのまま使ってしまえ、ということになったのだと思う。
もうひとつは、明治の文明開化で、欧米の抽象的な言葉を日本語にするとき、もっぱら、漢語調にした、ということもあるだろう。
鴎外先生は「交響曲」、「詩情」、「空想」なんて言葉を作っている。漱石先生ですら「浪漫主義」などと言い出した(駄洒落だったのかもしれないが)。
漢語調にしたのは、漢語も欧米の言葉も、外から入ってきた言葉だからだろうか。そこんところはよくわからない。
じゃあ、漢語の元になった中国語が半径3m以内の生々しいことを表現するのが苦手かというと、そんなことはないだろう。中国でだって、ヨッパラった親父はいびきをかくはずだ。
たぶん、親父のいびきの類の言葉は、元々、和語にあったので、わざわざ輸入しなかったか、あるいは輸入してもあんまり使わなかったのだと思う。
でだね、ここで話はいきなり現代に飛んで戻るのだが、あちこちのブログを読むと、「今日、バイト先にひどい客が来た(涙)」調の日記は別として、どうも漢語を使った窮屈な議論が多すぎる気がするのだ。書生論みたいなものも多い。
まあ、そういう窮屈な議論がいかん、というわけではないが、多すぎる。
いちがいには言えないけれども、どうも漢語、あるいはムツカしい言葉を振り回す議論というのは、リクツがリクツを呼んでしまい、赤ん坊の夜泣きや隣のオバチャンの腰の痛みの話やなんかの、生な感じから離れた話に流れがちな気がする。
わたしが馬鹿だからそう感じるのかもしれないが、うさんくさいものや、うすっぺらいものも多い。
ブログやなんかにコムズカしい話を書いたら、それを一回、なるべく和語を多くして書き換えてみるのも手だと思う。ルサンチマン、とか得意気に書いてないで。
書き換えているうちに、窮屈な言葉を振り回していたときには見えなかったことが、いろいろ見えてくる場合もあると思う。
山田風太郎「人間臨終図巻III」(徳間文庫、ISBN:9784198915117)の「稲垣足穂」の項より。
その翌年三島(稲本註:由紀夫)が死んだとき、その生首がころがった新聞の写真を見て、足穂はいった。「実のところ三島の首は、生きているときから生首の感じがした」
つまり、身体とつながっていない、文壇の批評を計算した秀才文学に過ぎない、という意味だが、彼は三島のみならず、だれの文学も認めようとはしなかった。
-
-
-
-
-
-
-
-
- -
-
-
-
-
-
-
-
「今日の嘘八百」
嘘四百九十二 迷うわな 酔っぱらったら いい女
*1:ヘイ、マザー。