ちりめんじゃこの平等

 命の価値は平等である、という考え方があって、この思想に基づいて建てられたのが有名な宇治の平等院である。嘘である。

 観念論というのか、言葉に言葉を重ねて物事を考え、ある種のファンタジーに至ることがある。「命の価値は平等」というのもそのひとつだろうと思う。人間がかたまって住んでいくには、互いの了解事項があったほうが便利で、ファンタジーはその一種として活用される。

 「人間の命の価値は平等」ということはまあまあ受け入れられやすいほうだろう。お互いに死ぬのが嫌だからだ。

 ところが、ここで「人間」という枠をはみ出して見てみることもできる。「人間、人間というけれども、人間だけを対象にするのはいささか身勝手じゃないか? ずるくね? 」と考えだすと、動物まで(あるいは場合によっては植物まで)広げて「命の価値は平等」というファンタジーが広がっていく。

 あるいは、インド方面の伝統的な考え方が中国から日本へと流れ込んで、日本の土着的な山川草木みなひとつのような感じ方と合体すると、「命の価値は平等」という感じ方(理屈というよりも)が納得できるような気になってくる。

 しかし、ファンタジーは現実の前であっという間に粉砕されるのだ。

 

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Alpsdake [CC BY-SA 4.0 (https://creativecommons.org/licenses/by-sa/4.0)]

 

 なるほど、確かに、ちりめんじゃこの中に限れば、命の価値は平等である。