- 作者: 宮崎市定
- 出版社/メーカー: 岩波書店
- 発売日: 2015/05/16
- メディア: 文庫
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宮崎市定(みやざき・いちさだ)先生は、内藤湖南らの京都大学東洋史学を継承、発展させた大学者だそうだ。だそうだ、などと甚だ頼りない書き方をするのは伝聞情報だからで、教養がないとこういうときに哀しい。
今、総論を読み、春秋と戦国を終え、ようやく秦の時代に入ってきたところだ。市定先生の文は平明なのだが、何せ内容が濃いので、ちびちび読んでいる。
先生は1901年生まれだから、西暦の下二桁をとれば、先生がそのときいくつだったかがおおよそわかる。「中国史」は上が1977年、下が1978年の刊行だから、先生が七十代後半の著作だ。
1970年代後半はまだソ連が表向き健在で、中国も毛沢東が亡くなって文化大革命がようやく終結する頃である。日本でもマルクス主義(唯物史観、階級闘争)がまだ幅を利かせていた。
市定先生は終戦直後にまだ四十代半ばだった。その後、、ボウフラのように湧き出してきたマルクス主義的な歴史学と随分、戦わなければならなかったのだろう。こんなことを書いている。
(・・・)私がいつも考えていることは、人間の頭の働きには大体二通りの方向があることである。ある人たちは言葉を重んじ、言葉と言葉との関係なら、どこまでもその論理の展開について行くことができる。この派の人は具体的な事実に出会うと、すぐそれを抽象化し、抽象しない限りは理解したことにならぬとする。(・・・)
ここで我々が注意しなければならぬことは、事実を抽象して抽象語を造ると、その言葉は事実の裏付けなしでも、独り歩きし出す危険のあることである。(・・・)
最も甚だしい例は戦時中の日本であった。日本の歴史事実を抽象して、あるいは抽象したと称して、無数の抽象名詞が造成された。皇道、神国、八紘一宇などの言葉が、本当の日本の歴史から離れて、独立に動き出したから大変だったのである。(・・・)私の個人的な考えでは、世の中にはずいぶん唯物論と名乗る観念論があって、それはどこの側からでも借用されそうな危険を内蔵しているような気がしてならない。
確かに、いわゆる極右も左翼も観念論(としばしば情念)が先行するという点で近い。
しからば、先生の頭の働きはというと:
(・・・)それは具体的な事実ならば、そのまま頭の中に納まり、事実と事実との連絡、因果関係においてなら、相当複雑な、かつ長たらしいものであっても、すぐ理解することができるという頭である。しかし、それを抽象化されてしまうと、もう言葉と言葉の論理にはついて行けない。言葉には具体性がないからである。(・・・)世間ではどうやら、こういう作業は歴史学の中でもいちばん下等な仕事だと見る人が多いようである。(・・・)しかし私の考えではこのような生き方こそ、歴史家の本筋であり、歴史家でなければ出来ない仕事だと思って自ら安んじている。他人がなんと思おうとそれは私に関係したことではない。
この一文、シビれた。
戦後のマルクス主義者には随分と頭のいい人たちがいたろうし、ソ連や共産中国を建てた人たちも、多くが頭よく、理想に燃えた人たちだったろうと思う。しかし、その後の歴史を見る限り、概してよい結果を生まなかったようだ。観念論が先行しすぎたのだと思う。
ライト・プレイス、ライト・タイム(in the right place at the right time)という言葉がある。ことを為すにはいい時、いい場所にいることが大切だという。しかし、それとともにライト・ウェイ(in the right way、正しいやり方)が大切なのだろう。
最後に、市定先生のシビれる文章をもうひとつ。この頃の近視眼的な教育政策に対して、重要なポイントをついていると思う。
ところで基礎的な学問ほど、由来直接の役には立たぬものなのである。また役に立つはずがないのだ。それは自然科学に比べればすぐ分る。解剖学者は大てい診察ができないし、解析幾何を専門とする数学者がそのまま測量ができるとは限らない。
解剖学が進んでこそ臨床医学は進むし、解析幾何が進んでこそ測量も工学も進む。畑を耕さないで実学の実(み)ばかりを取ろうとしていると、すぐに土地は痩せてしまうだろう。