挿絵の表情

 少し前に、水滸伝の挿絵の中の人々がやたらとウレシそうでグーだ、という話を書いた(id:yinamoto:20080530)。


 例えば、物語の冒頭近く。好漢・史進が剣をブン回して大立ち回り。



 首を刎ねられた人まで描かれているのに、絵の中の人物の表情はというと、



「うひゃあ」


 と、この調子なのである。
 挿絵は明末のものだそうで、今日の目から見ると、表情に緊迫感のかけらもなく、不思議にすら思える。


 わたしは中国の挿絵事情について何も知らないのだが、岩波文庫の「聊斎志異」(清代の怪奇短編集、作者は蒲松齢)の挿絵を見ても、表情には気を配っていないようだ。


 次の絵は、「聊斎志異」の中の「宿屋の怪」という話。宿に泊まった客が女の幽霊にどこまでも追いかけられて、ドキドキ物のお話なのだが、




「ああ、アタシ、この木、好き!」


 と、幽霊の表情には何の怖さもない(もちろん、元の話で、幽霊はこんなセリフを吐いていないので、念のため)。


 では、我が国の江戸時代の挿絵事情がどうだったかというと、もちろん、わたしはこちらについてもナーンにも知らないのだが、試みに手元の本をいくつか見てみよう。例えば、この本のカバー。


完本 八犬伝の世界 (ちくま学芸文庫)

完本 八犬伝の世界 (ちくま学芸文庫)



南総里見八犬伝」(滝沢馬琴作)の犬山道節(たぶん)が、歌舞伎みたいな大見得切って、カッコいいのなんの。


 ちなみに、この「完本 八犬伝の世界」は、「南総里見八犬伝」の筋を追いながら、エピソードの裏に書くされた意味を解き明かし、江戸時代後期の伝奇世界の魅力を語って、飽かせない。一説によれば、「南総里見八犬伝」本編より面白いという。
 わたしは「南総里見八犬伝」を読んでいないので判断つかないが、ともあれ、オススメである。


 随所にイカした挿絵が載っているのだが、多くは歌舞伎的構図、ポーズである。


 例えば、八犬士の霊的母とも言うべき、伏姫切腹の場面。



 芝居を見るような構図である。



烈婦・伏姫!



成田屋っ!」


 チョン、とツケでも鳴りそうだ。


南総里見八犬伝」だけが歌舞伎調、というわけでもないようで、例えば、「春告鳥(はるつげどり)」(為永春水作)の挿絵を見ると、こんな具合。




「どうした、お民」

「イエサ、あの、ヲホホ」

(こんなセリフはないので、念のため)


 女形がよくこんな仕草をしますね。





「おっと、了見違えしちゃア、いけねェよ」


 当時の挿絵が歌舞伎から影響を受けていたのか、歌舞伎のほうが絵から影響を受けたのか、それともその両方なのか。ともあれ、他の絵を見ても、随分と芝居的なのである。


 今日的な感覚でいう、表情の微妙さはない。物語の主要人物については、表情やポーズがパターン化している。
 男の口は、たいてい、への字か、おちょぼ口。女はほぼ全員、吊り目のおちょぼ口で、せいぜい、笑うか、泣くかしかない。


 これは、浮世絵でも同じことが言えると思う。まわりの景色や道具立て、風情にはいろいろと趣向を凝らすのに、人物の顔立ち、表情、ポーズはパターン化しているように感じる(あの北斎先生ですら)。


 わたしの目からすると、絵師達は表情にほとんど関心を抱いていないように見える。


 一方で、端役というか、有象無象の人々は、主要人物達に比べて、表情が随分とはっちゃけているのである。



「春告鳥」の端役の人々


 式亭三馬の「浮世床」なんて有象無象ばかりだからか、随分と表情豊かだ。





 ただ、表情豊かといっても、いろんな表情をしているというだけで、深みのようなものは感じられない。ムツカしい言葉でいえば、人物それぞれの“内面”みたいなものはほとんど表現していない。


 主要人物は歌舞伎的な構図・ポーズ・表情で、有象無象は表情豊かだが、表面的。これはどういうことだろうか。


 当時の絵が単純だったから、と結論するのは簡単だが、おそらく、傲慢な見方だろう。
 そうではなくて、絵という物の捉え方。絵師が描き、読者が見るときの感覚が、現代とは随分違っていたのだろうと思う。


 現代の我々は、「モナ・リザ」の謎の微笑み、みたいな、微妙な表情を描くのは素晴らしい、内面を表現する/読みとるのが偉い、みたいな捉え方に慣らされている。
 そういう目で昔の絵を見ると、パターン化されているとか、極端に言えば、みんな同じ、稚拙というふうに捉えてしまう。



「チンケね。ふふ」


 しかし、当時(江戸時代後期くらい)の絵をパラパラ見ていると、パターン化すること自体に価値があるというか、いかに“キマるか”に価値が置かれていたように感じる。有象無象については、キマる必要がなく、滑稽さや、猥雑な賑やかさ、活気を表現することが主眼となったのだろう。


 あらかじめ頭の中にパターンがあって、それに合った絵を見ると、“お。よく描けてるね”、“いい趣向だね”という感覚だったのかもしれない。内面の複雑な感情がにじむような表情、なんてどうでもよかったんではないか。いや、知らんけど。


 現代の絵の捉え方(雑な言い方ですが)と、昔の人の絵の捉え方のどちらが上ということはないだろう。
 ただ、昔の人の絵の捉え方、絵から得る感覚も会得できれば、よりいっそう、幅広い絵の楽しみ方をできそうな気はする。


 思うに、今の、例えば、アニメ絵みたいなやつも、何百年か後の人が見れば、「何だ、この気持ち悪い巨大な目は」とか、「こんなあからさまな媚び方、するわけないじゃん」などとツッコむんじゃないか。
 ある時代、ある地域に生きた人々の、絵に対する感じ方、絵から得るものは、たぶん、そうすぐにはわからないんだと思う。


 まあ、しかし、日本の絵心のある人で、初めて「モナ・リザ」を見た人って誰か知らないけど、驚いたろうね。



「考エスギダヨ!」


完訳 水滸伝〈1〉 (岩波文庫)

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聊斎志異〈上〉 (岩波文庫)

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洒落本・滑稽本・人情本 (新編日本古典文学全集)

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