フォークナーを読む

 ここしばらくアメリカの作家、ウィリアム・フォークナーの小説を読んでいた。

 好きな作家、ガルシア=マルケスが「師匠」とまで読んでいる人なので、どんなものだべさ、と読んでみたのだ。

 まずは「八月の光」から。ガルシア=マルケスの自伝「生きて語り伝える」の中に何度か出てくる作品だ。

 

 

 後からふりかえれば、フォークナーの作品のなかでも文章が読みやすく、ストーリーも派手に展開して、わかりやすい。文章が読みやすいのには翻訳者の黒原敏行の力も大きいかもしれない。翻訳の姿勢として、読者に読みやすいようにかなりの意訳も辞さない人のようだ。その良し悪しはいろいろ意見が分かれるだろうが、おれのようなフォークナー初心者にはありがたい。

 黒人の血が混じるとされるジョー・クリスマスの物語が中心に進む。フォークナーの他の作品と同じく、ミシシッピ州の架空の土地、ヨクナパトーファ郡が舞台だ。なかなかに劇的で、残虐さ、救いようのない悲劇が入り混じる話なのだが、小説の始まりと終わりのリーナのエピソードが明るい希望を感じさせる。

 フォークナーの作品のなかから、これを最初に読んで正解だったかもしれない。難解さが少なく、シンプルに「面白い」話だからだ。

 次に読んだのは、「アブサロム、アブサロム!」。

 

 

 

 ヨクナパトーファ郡にサトペン百マイル領地と呼ばれる巨大な農園を築いたトマス・サトペンとその一家の興隆と没落の物語だ。

 トマス・サトペンにまつわる人々から聞かされた物語を、青年クエンティン・コンプソンが読み解いていくという捻った構造になっている。トマス・サトペンの悪魔的な野心がさまざまな人間模様とからみつき、読んでいて迫力がある。最後はエドガー・アラン・ポーのようなゴシック的な展開で強烈な読後感を残す。

 続いて、「響きと怒り」。順番としては、「八月の光」「アブサロム、アブサロム!」の前に書かれたもので、「アブサロム、アブサロム!」に出てくるクエンティン・コンプソンの一家の物語だ。

 

 

 

 全四章の構成で、四章をのぞいて、コンプソン一家の三人の「意識の流れ」を綴る形になっている。

 一章は知的障害者ベンジーの話。ベンジーは口をきくことができないのだが、口をきくことのできない人間の意識の流れをつむぐという曲芸をフォークナーはやってのける。

 二章はハーバード大学に進学したクエンティンの話。自殺を決意してボストンの町をうろつくクエンティンの一日を描く。悲劇を前にした物語なのだが、イタリア人少女とのエピソードが優しく、少しだけ救われた心持ちになる。

 三章はクエンティンの弟、ジェイソンの話。ジェイソンはなかなかのクソ野郎で、ムカムカしながらもテンポよく、最後まで読んでしまう。クソ野郎の意識の流れはテンポがよいのだろうか。ベンジー、クエンティンのひとり語りに比べるとだいぶ理解しやすいのは、おれもクソ野郎だからか。

 そして、最後の四章はコンプソン一家を長く支えてきた黒人家政婦ディルシーを中心とした話。教会で奇蹟を体験するディルシーの話は迫力があり、また少し救われた心持ちとなる。

 最後に、「行け、モーセ」。

 

 

 ヨクナパトーファ郡の農園主、マッキャスリン一族を中心とする短編集だ。

 マッキャスリン一族は始祖のキャロザーズ・マッキャスリンの蒔いた種により、白人系の一族と、黒人系の一族に分かれる。それぞれの短編では、さまざまな年代にわたる彼らの絡み合いが描かれる。

 中心に置かれる白人のアイザック・マッキャスリンは文明に押されていくミシシッピの自然の中に溶け込むことを願っている人物で、白人、黒人の対立する世界を解く鍵を持った人物のように、おれは読んだ。

 最後の短編「行け、モーセ」では「響きと怒り」に似て、黒人の老婆モリーが強い印象を残す。南部の旧家に育ったフォークナーには、モデルとなった黒人の家政婦老婆がいるようだ。彼女への愛情と尊敬が感じられ、やはり救われた気持ちになる。

 フォークナーの小説にはわかりにくい文章がよく出てくる。「何を言っているのであろうか」と思ってしまうのだが、まあ、こちらの読解力のなさのせいなのだろう。あるいは、英文と日本語文の構造の違いによるところも多少はあるかもしれない。英文は主語、述語があって、修飾節がその後にくるのが基本形だが、日本語文は修飾節が来てから、最後に主語、述語がくることが多い。フォークナーの長い、長い修飾節を読みながら頭に「?」が生えだし、「何の話であろうか?」と思っているうちにわけがわからなくなり、最後に主語、述語に至るころにはすっかり頭が馬鹿になっているという寸法だ。

 もっとも、英語の読者にもフォークナーは難解らしいから、日本語の問題だけではないのだろうが。おれのフォークナー体験からすると、わかりにくい文章はわからないなりにすっ飛ばしても、十分に小説を楽しめる。

 フォークナーには中毒になるようなところがある。彼の描くミシシッピは沼のごときで、古いしがらみと、人間の生な感情と、神の問題が入り混じる。ミシシッピという埃と誇りと泥にまみれた光ある土地に滞在した気分になりたい人は、どうぞ。