ラテンアメリカ小説遍歴 その3

 昨年末以来、ラテンアメリカ小説を読み続けてきた。その報告、第三弾。

 

 

 キューバの作家、カブレラ・インファンテの、革命前のハバナを舞台にした小説。歓楽街を中心にさまざまな話が進む。

 この作品の魅力は、どう語ればいいのだろう。原作はキューバスペイン語の可能性を追求したものらしい。洒落や言葉遊びに満ちている。日本語で翻訳する際は当然、それらは訳せないから、日本語の洒落や言葉遊びに置き換えられている。とても生き生きとした文章なのだが、翻訳文がそうした生命力を持っているということは原文も生命力があり、それを翻訳者が苦労して日本語に移し替えたということなのだろう。訳した詩にも感じるのだが、翻訳した文章というのは原作者と翻訳者の共同作業というか、翻訳者の創造性もかなり織り込まれたものだと思う。

 続いて、ガルシア=マルケスの「迷宮の将軍」。

 

 

  19世紀にベネズエラ、コロンビア、エクアドルなどをスペイン支配から解放した英雄、シモン・ボリバルの最後の旅が描かれている。その晩年は、政治的失意と病気に悩まされ、思いのほか、寂しい。その寂しさこそがこの小説の眼目である。

 エピソードを塗りこめるようにして構築していくガルシア=マルケス節は抑えられ、リアリスティックな筆致だ。ガルシア=マルケスの書くシモン・ボリバルの最後に、栄光はない。

 

 

  ペルーのバルガス=リョサが、19世紀末のブラジルの宗教反乱「カヌードスの乱」を描いた作品。

 聖者コンセリェイロのもとにさまざまな人々が集まり、カヌードスに一種の宗教王国をつくる。ブラジル共和国は軍隊を派遣するが、何度も撃退される。その戦争の様がリアリスティックな筆致で書かれる。

 登場人物は多く、さまざまな人々のストーリーがからみあい、全体が形づくられる。後半の戦争の様は、戦争そのものが苦しいから、読んでいて苦しい。しかし、コンセリェイロを中心とした宗教王国で互いに支え合う人々の姿は美しく、そこに少しだけ救いがある。

 二段組で700ページ近くの大著だが、読んでいて飽きることはない。素晴らしい構築力と文章力だと思う。

 アルゼンチンの作家、ボルヘスの短編集を二冊。

 

 

 

 ボルヘスはまず、非常に主知的である。一種、数学的にすら思えるくらいだ。小説などでよく評される「人間が描けている」なんてことにはまるで興味がないのだろう。高い知性と幻想が合体して、独自の、おそらく誰も真似できない作品世界が生まれる(H.G.ウェルズに少しだけ似ているかもしれない)。

「伝奇集」の中の「円環の廃墟」「バベルの図書館」、「アレフ」の表題作だけでも読んでみてほしい。ボルヘスが天才だとわかるはずだ。

 最後に、再びガルシア=マルケスの「族長の秋」。

 

 

 読むのは二度目である。

 ラテンアメリカの架空の国の独裁者が主人公。

 驚いたことに、段落がひとつもない。いくつかの章があるが、章の中では全てがつながって書かれている。段落という整理した単位がなく、文から文へ、エピソードからエピソードへとつながっていく。エピソードを何重にも塗り込んで小説世界を作るガルシア=マルケスの真骨頂である。独裁者である「大統領」の救われない悩みと孤独と権力欲が、文と文のつながりのなかから見えていく。

 話はしばしば残酷で、グロテスクで、笑いがある。おそらく原文は散文詩的なのだろう。翻訳文も、そのリズムを再現しようと工夫されている。

 しかし、傑作かというとよくわからない。壮大な失敗作のようにも思えるし、怪作とも思えるし、ものすごいスケールと構想にこちらがついていけてないだけにも思える。

 

 ラテンアメリカの小説を、年末から何冊読んだだろう。とりあえず、ここまででいったん打ち止めにしようと思う。

 ラテンアメリカの小説を読みながら、ネットでその舞台となる土地を調べたりして、旅行をしているような気分にひたった。カリブ海を、アンデスを、メキシコシティを、アマゾンを、ブエノスアイレスを、マグダレーナ川を、ブラジルの荒野を、おれは旅した。楽しかった。

 またいずれ、気が向いたらラテンアメリカを小説で旅しようと思う。