英文日本語文の構造と翻訳の難しさ

 今、アメリカの作家ウィリアム・フォークナーの小説を読んでいる。

 最初に読んだ「八月の光」は割りに読みやすかったのだが、今読んでいる「アブサロム、アブサロム!」は読みにくい文が多く、苦戦気味である。

 何が読みにくいって、一文が長く、読んでいるうちにおれの頭の処理能力が追いつかなくなってしまうのだ。

 たとえば、適当に拾った文を転記してみよう。

私にはボンがヘンリーを、予告も警告もせずに、仮定より事実が先だとして、次第に典雅な遊びの界隈へと誘い込み、ゆっくりとその表面にさらしていく様子が目に浮かぶーーいくらか風変わりで、いくらか女性的にけばけばしく、それゆえヘンリーには華美で罪深く見える建物や、汗水たらして働く人間が綿花農場を横切ってゆっくりと少しずつ進んで手に入れるかわりに、蒸気船の積荷の量によって測られるような、巨大で、しかも安易に手に入れた富を創造させる豪奢なものや、無数の車輪の華やかなきらめきなどにさらしていく様子が目に見える、

 最後は「、」で切っているが、普通の文なら「。」で終わるところだろう。文章のリズムをつくるためにそうしているのだと思う。

 この文が読みにくい理由はふたつあるだろう。

 まず長い。文の構造が複雑である。おそらく原文をアメリカ人が読んでも、長くて読みにくいと感じるだろう。

 もうひとつは、英文と日本語文の構造の違いである。

 ご案内の通り、英文と日本語文では語順が大きく異なる。英文でたとえば:

主語A - 述語A - 目的語 - 関係代名詞 - 主語B - 述語B

 なんていう文があったとして、これを日本語文にすると:

主語B - 述語B- 目的語 - 主語A - 述語A

 という順番になる。

 短い文ならそれほど読みにくくないが、フォークナーの先の引用文のように、関係代名詞などで修飾 - 非修飾の関係がいくつもつらなると、文全体の意味の統御を成す「主語A - 述語A」がようやく最後に現れるので、「あれ? おれは今、何について読まされているのか?」とわからなくなってくる。

 フォークナーの文はおそらく原文でもわかりにくいのだろうが、それでも日本語の翻訳で読むよりは構造がわかりやすく、流れに沿って理解できるものになっている可能性はある。まあ、原文読んだわけではないので、わからないけれど。

 翻訳者が悪いわけではなく、これはもう、日本語という述語が最後に出てくる文型の宿命みたいなものだと思う。

 ともあれ、「アブサロム、アブサロム!」は読み下すのが大変だ。それでも話の筋は面白く、楽しみながら読んでいる。