子供の名前

 先週に続いて、子供にどんな名前をつけるか、という話。

 

 随分と昔だが、田中角栄全盛期の頃、親がこどもに角栄という名前をつけ、その後、ロッキード事件やら何やらで田中角栄のイメージが失墜したとき、学校で子供がいじめられるというので役所に改名を願い出るという出来事が確かあった。あるいは、親が子供に「悪魔」という名前をつけ、役所が不受理にしたので親が裁判所に訴え出た、なんていう事件もあった。

 何度か書いた記憶があるが、おれの名前は「喜則」と言って、「喜んで規則を守る」子供になってほしいと親が願ってつけたんだそうだ。喜んで規則を守るやつなんているのだろうか。何かのプレイか。

 おれ自身は、親には悪いが、自分の名前があんまり気に入っていない。割と画数が多くて、書いている途中で飽きてくるし(だから、よく則の字はいい加減に書いてしまう)、「喜」という字がどこか気違いじみている。もっとも、そのものじゃないかと言われれば、返す言葉がないが。

 いっそ、「一(はじめ)」とか、そういう名前だったら、書くのも楽だったろうなー

 と思うのだが、知り合いの「二郎」という名前の人は「ナンバリングで名前をつけてほしくなかった」と言っていたから、まあ、子供それぞれいろんな感想があるものですね。

 子供からすると、自分の戸籍上の名前は自分の最も身近なものなのに、自分で決めることができない。まあ、不自由なものではあるが、考えてみれば自分の顔だって体だってなかなか自分の意志では決められないところが多いから、そもそもわしらは生まれたときから不自由なものなのだ、ということかもしれない。

キラキラネーム

 いわゆるキラキラネームというのがあって、主に若い夫婦が子供にキラキラした名前をつける。

 今、とっさに検索すると、こんなのが出てきた。

1位:昊空(そら)
2位:心愛(ここあ)
3位:希空(のあ)
4位:希星(きらら)
5位:姫奈(ぴいな)
6位:七音(どれみ)
7位:夢希(ないき)
8位:愛保(らぶほ)
9位:姫星(きてぃ)
10位:匠音(しょーん)
11位:美望(にゃも)
12位:奇跡(だいや)
13位:杏奴(あんぬ)
14位:祈愛(のあ)
15位:男(あだむ)
16位:頼音(らいおん)
17位:夢露(めろ)
18位:雅龍(がある)
19位:琉絆空(るきあ)
20位:黄熊(ぷう)

 いやあ、実にもってキラキラしている。

 中には愛保(らぶほ)とか、黄熊(ぷう)とか、子供の立場からすると将来、ちょっと困るんじゃないか、と思うものもあるが、まあ、ついてしまったんだからしょうがない。

 キラキラネームというのは上の世代からすると、なんじゃそりゃ、とか、(苦笑)の対象になりがちで、好意的な人より困った感やヤレヤレ感を覚える人のほうが多いんじゃないかと思う。自分の時代に慣れ親しんだもの以外には違和感を覚えるのが普通だから、仕方がない。

 おれの世代(五十代)だと、たとえば女の子の名前には〇〇子というのが多い。明子とか美奈子とか、まあ、そんな名前で、今でもこのタイプの名前をつける親は一定数いるだろう。

 しかし、〇〇子なんていう名前は昔はお公家さんか武家のお姫様の名前であって、イッパンミンシュー(って誰のことかわからんけど)からすると、少し遠い感じだったらしい。何に書いてあったか忘れたが、明治時代に「〇〇子」という名前の女の子を見て、「お公家さんみたいだなー」と言ったという話を読んだことがある(あやふやなうえにあやふやを重ねて、申し訳ない)。

 落語を聞いていても、〇〇子という名前を聞いた覚えがなく、ある時代(明治半ばうらいからか)から増えたのだと思う。当時のイッパンミンシューのジョーショー志向の表れだったのかもしれない。当時は今でいうキラキラネームみたいに見えたんではないか。知らんけど。

 

 

方言の行き来

 知ったのは割と最近だが、大阪の漫才コンビの金属バットが好きで、YouTubeなんかでよく見る。三十代半ばで、頭を剃り上げた巨体の小林とロン毛の友保(ともやす)のコンビで、見た目は癖が強いが、正統派のしゃべくり漫才で、話術と言葉のセンスが素晴らしくいい。興味を持った方は適当に検索してご覧いただきたい。

 友保のほうは「〜してまんねん」「〜んとちゃいまっかの」などと大阪の古い芸人言葉を(おそらく意識して)使う。一方の小林も「おれサ、〜してサ」と、大阪弁の中に「サ」を入れる。小林も友保も大阪・堺の出身だそうだが、南関東特有の語尾「サ」が入るのがちょっと不思議である。

 言葉というのはいろいろと変わったり、伝染したりするものなのだなあ、と思う。特にテレビやネットの動画で話し言葉が大量に行き来する時代だから、各地の言葉が入り時混じるのも当然かもしれない。東京でも、もっぱら大阪のお笑いからの影響で、「ちゃうて」とか、「なんやねん」などの言葉が日常的にも用いられるようになってきた。

 今の東京言葉の特徴である「〜じゃん」という語尾はもともと横浜あたりのものだったらしい。「かったるい」「うっちゃっとく」などもそうらしく、どういう経緯で東京に広がったのだろうか。ヤザワの影響か(永ちゃんが広島から出てきて、東京に行くつもりがふらっと横浜で降りて住み着いたのは有名な話)。まあ、矢沢永吉に限らず、ジャズ、ロックに横浜出身のミュージシャンは多いので、そこからテレビなどに流れたのかもしれない。

 言葉の変化というのは面白いものだと思う。伝染するのはウィルスばかりでないのだ。

モヤモヤ外来種

 外来種の問題というのがあって、時々、話題になる。

 日本以外から日本に来て、それまでそれなりにバランスをとって安定していた生態系を一気にぶち壊すタイプがいて、ブルーギルブラックバスなんかはこれにあたる。

 一方で、日本の在来種と比較的近縁で、交雑(ヤな言葉だが)して日本固有の種の遺伝体系を変えてしまうというタイプもいる。タイワンザルはニホンザルと子供を作れるため、タイワンザルとニホンザルが交わると雑種(これもヤな言葉だ)が生まれる。

 おれは外来種の駆除にさほど反対はしないが(反対するほど関心がないというのが正確なところだが)、考えるとモヤモヤするところがある。

 これまでの生態系のバランスを守る、というのはまあ、一見、もっともらしい。一方で、適者生存の法則というのもあって、古来、生物種というのは食ったり食われたり、逃げたり逃げられたり、大量に子供を産んだり、少ししか生まれない子供が死んだりして生態系を長い目では安定させてきた。その中には自然と絶滅するものもあれば、生き残るもの、進化するものもある。

 だいたい、日本でいきなり発生した生物というのはさほどいないわけであって、早い話が人間だって土から生えてきたわけではなく、おそらくはどこかからやってきて、この島国に住みついたのだろう。

 あるいは、稲はどうか。稲がどこから来たかについてはいくつか説があるようだが、日本古来の種ではないのは確かだ。人間が稲を植え、広げ、今では日本列島のそこらじゅうが稲だらけである。おそらくは稲が広がる間に絶滅した植物種、動物種というのはたくさんあるはずであり、一方で稲の広がりにのっかって繁栄した植物種、動物種もあるだろう。おそらく、稲は日本最大、最強の外来種である(まあ、ほとんどあらゆる種が元をたどれば外来種なのだろうが)。

 外来種を嫌がる心理の中には、一種の排外思想というか、負けてたまるかニッポン男児的な感情も入り混じっていて、多分にそういう感情的な部分も、理屈の名を借りて潜んでいるように思うのだが、どうか。

年齢

 おれには割と年齢を基準に人を考える癖があって、そんなの本当はあんまり関係ないよなー、などと頭では考えるが、ついつい気にしてしまう。

 おれは今、54歳で、自分でも年齢なりの重みや知恵がないことに笑ってしまうが、まあ、ぼんやり生きてても、自然と年はとるので、仕方がない。

 いろんな人の年齢を調べてみると、なかなか面白い。

 たとえば、夏目漱石

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 明治の大作家、というか、今に至るまで高い評価を得ている漱石先生だが、「明暗」を書いている途中で亡くなったのが、49歳である。おれより五つも若い。

 最初の本格的作品「吾輩は猫である」が掲載されたのが38歳のとき(満年齢による単純な引き算。月は考えない)だから、遅咲きの作家である。作家生活はせいぜい十年ちょっとしかない。

 作品の重たさや肖像写真のイメージもあって、おれには永遠の年上というイメージだが、もはやずっと年下である。

 あるいは、田中角栄

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首相官邸ホームページ, CC BY 4.0 <https://creativecommons.org/licenses/by/4.0>, via Wikimedia Commons

 郵政大臣になったのが39歳、大蔵大臣が44歳。これはいかにも早い。通産大臣を経て、総理大臣になったのが54歳。もっと年をとっていた印象がある。もっとも、安倍晋三が最初に総理大臣になったのは52歳のとき。明治まで遡ると、伊藤博文なんて44歳で総理大臣になっている。

 田中角栄の年齢が意外と若く思えるのは、貫禄がありあまるほどあったからだと思う。人となりというか、本人のニン(人)によるところが大きいだろうが、戦争で上の世代の大物政治家が引っ込み、戦後、若くして腕をふるいやすい状況だったこともあるかもしれない。

 笑ってしまうのが、アル・カポネ。シカゴでマフィアの組織を譲り受けたのが26歳。今の普通の会社なら若手社員の年齢である。その後、破竹の勢いでシカゴを制圧。脱税で刑務所に送られたのが(「アンタッチャブル」で描かれたストーリーだ)、32歳。人生の展開が早すぎる。

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アル・カポネ、30歳のときの写真。

 そのアル・カポネの捜査を指揮して追い詰めたのが財務省のエリオット・ネス。カポネの有名な裁判のときは28歳である。カポネも、エリオット・ネスも、ほとんど「シカゴの青春」である。

 まあ、実際、人の年齢なんて活動とは大して関係がない。年齢が物を言うのは、もっぱら組織だった物事や秩序、あるいは形式が重視される状況や分野だと思う。

ソメイヨシノの戦略、イチョウの幸運

 東京ではこの土日、桜が満開、というか、正確にはソメイヨシノが満開である。

 日本の桜の種類についての統計を見たことがないし、そういうものがあるのかどうか知らないが、おそらくソメイヨシノは日本の桜の8割、9割を占めるんじゃないかと思う。

 ソメイヨシノは挿木によってのみ増える。実をつけない。交配をしないから、どの木もDNAはみな同じであって、人間でいえば、みんな同じ顔をして川端に並んでいるようなものである。

 個体のDNAがどれも同じだから、同じ場所にあれば、気温にしたがっていっせいに花を開く。これがソメイヨシノが派手にわっと見事に見える秘密である。個体のDNAがバラバラだったら咲く時期も微妙に異なるから、ソメイヨシノみたいにいっせいに花開く、なんてふうにはならない。

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SLIMHANNYA, CC BY-SA 4.0 <https://creativecommons.org/licenses/by/4.0/deed.ja>, via Wikimedia Commons Author: SLIMHANNYA

 花というのは普通、繁殖の役割を担っているけれど、ソメイヨシノの場合は、実をつけないんだから、繁殖器官ではない。あくまでわっと見事に咲いて、浮かれた人間に「よっしゃ、あそこもソメイヨシノの並木にしてしまおう」と思わせ、挿木をさせる。そのための道具だ。人間でいえば、チンポコ(すまん)があまりに見事なので、クローン人間をどんどん増やした、というようなものである。

 ソメイヨシノがここまで増えたのは、昭和期にあちこちで桜並木をつくるために挿木がされたからだそうだ。花は繁殖機能を捨て、ただいっせいに咲いてきれいに見せることに専念して、あちこちに増やさせている役目(だけ)を担っている。捨て身である。植物界の中でもなかなか特殊な戦略で繁栄した種だと思う。

 おれはソメイヨシノについて考えると、半自動的にイチョウについて考えてしまう。

 イチョウは木によって雌雄があって、交配で増えていく。個体のDNAはそれぞれ異なっている。秋のイチョウ並木に、早く色づく木もあれば、遅く色づく木もあるのはそのせいだ。ソメイヨシノと違って、いっせいにわっと色づくわけではなく、ちょっとバラけている。

 イチョウは随分と古い木で、中生代(恐竜の時代)に世界的に繁栄したそうだ。

 しかし、新生代に入ってからは他の植物に押され、一時は中国の一地方にわずかに残るだけになったそうだ。ところが、秋の黄色い色づきと独特の葉の形状が美しいということで、宋の時代あたりから中国国内のあちこちに移植されるようになった。それが日本に伝わり、ヨーロッパにも伝わり、今では世界中で街路樹などとして植えられている。絶体絶命からの大逆転であって、なかなか劇的である。

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/2/2c/Ginkgo_Avenue_of_Keio.png

User:Takoradee, CC BY-SA 3.0 <https://creativecommons.org/licenses/by/3.0/deed.ja>, via Wikimedia Commons Author: Takoradee

 桜のソメイヨシノも、イチョウも、花や葉が人間に気に入られることによって広まった。普通、生物はエネルギーの奪い合いや繁殖による生存競争に打ち勝ったものが繁栄するのだが、ソメイヨシノイチョウは「美しい」ということを武器にして繁栄したわけで、観賞用植物(人間の美意識を利用して広まる植物)の代表的な成功例だと思う。生物の進化や広がりのストーリーはつくづく面白い。

ニュースは見出しで変わる

 先週、コロナのワクチンによるアナフィラキシー(重いアレルギー症状)についてのニュースについて書いた。「ワクチン接種でアナフィラキシー 新たに12人」などとニュースの見出しが出ているけれど、18万741人がワクチン接種を受けてアナフィラキシーと認められたのは37人で、およそ4900人に1人の割合。確率にして0.0205%。ものすごく低い数字、という話だ。1年間で交通事故で死傷する確率のほうが15倍くらい高い(なお、アナフィラキシーの数字は10日ほど前のもの)。

 この手の見出しで怖い、不安を覚える、となるのは、見出しの付け方のせいもある。

「ワクチン接種でアナフィラキシー 新たに12人」

 ワクチン接種して大丈夫だろうか、と思う。しかし、こう書いたらどうか。

「ワクチン接種でアナフィラキシー 4900人に1人」

 ニュースの内容は同じだが、力点を置くところが違うと印象も変わる。

 もっとも、「4900人に1人」も、多少は不安に思わせる。「1人」がもし自分だったら、と思ってしまうからである。宝くじに当たると夢想するのと同じ原理である。

 こうしたらどうか。

 「ワクチン接種でアナフィラキシー 4900人中4899人は大丈夫」

  もっとも、こんな見出しをつけるニュースメディアはほとんどないだろう。安心させっるより、不安を覚えさせるほうが読んでくれる可能性ははるかに高いからだ。「あなたの口の臭いは気にならない」より「あなたの口は臭いかも」のほうが広告は効く。