とりあえず食ってみたヤツ

 朝、パスタにバジルソースをかけたものを食べて、ふと「バジルをこうやってソースにできると気づいたヤツが昔いたんだなー」と思った。

 まあ、料理方法というのはどれもそうで、最初にやってみたヤツというのがいたわけである。バジルソースについて書いたけれども、あれなんかは割とシンプルで、インド料理のカレーなんてスパイス(何かの実だの種だの葉っぱだの)を相当な実験精神の歴史のなかで組み合わせてきて、今ある姿になったのだろう。

 この実は食える食えない、この葉っぱは食える食えない、食えないと思っていたけどこうやったら食えた、美味くなった、なんていう発見は人間の飽くことなき追求の賜物である。そのおかげで我々は今、ナマコを酢の物にして食ったり、ベニテングダケをよけたり、フカのヒレをスープにしたりできている。

 もっとも、何かを食える食えないということの発見は、必ずしも積極的精神で行われたものではないのかもしれない。人間には一方で飢えの歴史がある。とにかく腹が減って、腹が減って、飢え死にを逃れるためにとりあえず口にできるものは口にした、というなかから、食えるもの食えないものの発見があったのではないか。

 中国の歴史ではよく大変な飢饉で木の皮を食った、根っこを食ったという話が出てくるし、先日読んだバルガス=ジョサの「世界終末戦争」でも19世紀末のブラジルの飢饉について同じような話があった。木の皮の料理というのはあんまり残っていないから、相当な無理があったのだろう。

 飢え死にの歴史の果てに、現在の食文化が成り立っていると考えると、申し訳ないような気もちょっとする。