見方・距離の取り方

 金原亭馬生(十代目)の「風呂敷」(「NHK落語名人選95 - 十代目金原亭馬生 風呂敷/幾代餅」、ポリドール、ASIN:B00005FMF0)にこんなセリフがある。
 おかみさんが亭主のやきもち焼きのひどさを、長屋の兄ぃに訴える場面。


妬くどこじゃないのよォ〜。この間だってね、掃除屋さんが来てさ、いつも残していくからきれいに汲んでってちょうだいよ、かなんか話してたのよ。そしたら、うちの人がつるっと帰ってきて、ジロッと見て、スッと家に入ってきたから、おや、おかしいな、と思ったら、台所から出刃包丁持ってきてネ、「ふたりとも殺してやる」。まあ、掃除屋さんはねェ、柄杓かついで逃げちゃうしさ。ねェ、桶置いてっちゃってさ、あーんなものは素人にどうにもならないもんでしょ。で、怒ったのよ、あたしだって。「何がどうなってんのよ」。「おめぇ、あの掃除屋の、汲みっぷりのいいところを惚れたんだろ」。ばかッ。「相手が掃除屋だけに恋(肥え)に落ちたんだろ」って、くだらないこと言うのよ。


「汲みっぷりのいいところ」っていうのがいい。聞いている観客は大受けである。


 先の、近視眼的・杓子定規にしか物を見ないタイプの人達なら、これを「掃除屋を笑い物にしている」と怒るかもしれない。


 ま、実際、笑い物にしている。肥えってのは臭いし、また飛び散るしね。ヨロコんで汲む人はあんまりいない。


 しかし、馬生師匠も、笑っているお客さんも、一方で汲んだ肥えで野菜が育ち、それを自分達が食っている、ということも知っている。


 物事は、見方や距離の取り方で、見え方がどうにでも変わる。扱い方もどうにでも変えられる。


 人は同じ人・物について、時には馬鹿にし、時にはほめ、時には感謝し、と、いろいろに変わるもので、それは豊かで結構なことだと思う。


 固定した見方しかできない、というのはつまらないし、もったいない。
 人権等々の話も、まあ、要るけど、法学部でやっているような話がノしすぎると、寒く、痩せたことになる。

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「今日の嘘八百」


嘘三百六十二 人類全体がいきなり頓悟し、あっという間に飢え死にしてしまった。


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