通念と仏説

 初期仏教の本を読んでると、当時のインド人にとって、輪廻転生というのは当たり前の通念、重い枷だったんだなーと思う(今でもそうなのではないかと思う)。

 輪廻転生というのは生き物が死ぬと別の生き物に生まれ変わるという考え方で、人間が人間に生まれ変わるとは限らないし、人間以外の動物が人間に生まれ変わることもある。日本でも輪廻転生の考え方はあるけれども、インド人のように全く当たり前のこととまではされていないようである。あるいは日本における輪廻転生の考え方は仏教とともに入ってきたのかもしれない。知らんけど。

 昔、おれがまだセーショーネンだった頃に手塚治虫の「火の鳥 鳳凰編」を読んだら、死ぬと他の何かに生まれ変わる、その生まれ変わりは永遠に続くというシーンが書いてあって、気が遠くなるような、重くなるような心持ちになった。インド人にとっての輪廻転生の重さはああいう心持ちなのかもしれない。

 仏教、特に初期仏教は輪廻転生を当たり前のこと、通念として成立したようだ。生きることの苦しみは死では終わらず、次の生においても存在する。その次においてもそう。これは随分と残酷な話である。解脱、ニルヴァーナというのはこの輪廻転生の苦しみの連続から抜け出すということだったようで、現に苦しみを感じており、次の生にもいても苦しみを感じるのだと思っている人々にとっては大変な希望であったろう。

 おれは初期仏教の教説の多くに共感するけれども(実践できるかどうは別)、輪廻転生についてはそんなに信じていない。もしかしたら生まれ変わりということもあるのかもしれないが、科学知識が常識の身の上からするとどうもそんなことはなさそうな気がする、というふわふわした思い方だ。

 輪廻転生がもしないとしたら、初期仏教のある部分は意味をなさない。お釈迦様も輪廻転生という通念を前提に教えを説いたようで、その社会の通念が元になって宗教の教説は生まれるのかな、と思う。

 まあ、こんなことをつらつら書いたところで、何かから救われるというわけでもなく、よもやま話のひとつにしかならないのだけど。ビバ、お釈迦様。