ここ一年半ほど、初期仏教についての本をよく読んでいる。もっぱら、昭和の泰斗、中村元の著書や訳書である。中村先生の本は平易に書かれたものが多く、おれのような無学者にもとっつきやすい。
仏教の重要な心の持ち方に慈悲がある。「悲」という漢字が入っているせいで、どこか哀しげで、陰気な印象がある。しかし、元々の意味と悲しみは関係ないらしい。
サンユッタ・ニカーヤという仏典にこんな話がある。
コーサラ国の王様パセーナディが宮殿で王妃のマッリカー夫人にこんなことを聞く。
「そなたには、自分よりももっと愛しい人が、誰かいるかね」
もしかすると、「あなたさまです」という答えを期待したのだろうか。しかし、マッリカー夫人の答えは違った。
「大王さま。わたくしには、自分よりももっと愛しい人はおりません。あなたにとっても、ご自分よりももっと愛しい人がおられますか?」
マッリカー夫人は正直である。夫であり、王であるパセーナディより自分のほうが愛しいと答えた。
パセーナディ王はそう言われてみて、自分でも考えた。
「マッリカーよ。わたしにとっても、自分よりもさらに愛しい他の人は存在しない」
ここまで読むと、「人は誰もが自分が一番愛しいのだ。エゴイスティックな存在なのだ」と、少々、冷めた結論になりそうである。
しかし、お釈迦さまの考え方は違う。パセーナディ王がお釈迦様にこの話をすると、お釈迦さまはこう答えたという。
「どの方向に心でさがし求めてみても、自分よりもさらに愛しいものをどこにも見出さなかった。そのように、他の人々にとっても、それぞれの自己が愛しいのである。それ故に、自己を愛する人は、他人を害してはならない」
他人も自己が愛しいのだから、他人を害してはならない。この考え方が慈悲の根っこにあるらしい。誰もが自己愛を持っており、相手の立場になれば害されるのはかなわない。だから、害さない。
相手も自分と同じレベルの主体である、だから共通の規範を持たなければならない、という考え方で、何か、リベラリズムに近い。
男女や親子の愛情とちがって、慈悲があまねく広がるのは、一対一の関係(自分は自分自身が大切である。相手も相手自身が大切である。だから、相手を害さないように努める、と考える関係)が敷衍されるからのようだ。