仏教でクリスマスを真似るとどうなるか

 12月に入って、街はクリスマス色である。

 この時季になると毎年書くのだが、キリスト教徒でない者がクリスマスを祝うというのは少々奇妙ではないか。極論すると、不誠実な態度にも感じるのだ。

 まあまあ、そんなかたいこと言わずに、というのが大方の意見だろうし、日本はそこらへんぐずぐずの国だから、という意見もあるだろう。それもわかる。そうしておれは、結局のところ毎年答えが出ず、揺れる男心のままにクリスマスを迎えるのだ。

 おれはキリスト教にあまり縁がなく(キリスト教に「縁」と言うのも変だが)、カトリック系の幼稚園の園児だったとき、クリスマス会でイエス・キリストの役をやったのが、おれ史上最高に接近したときであった。しかし、そのときはイエス誕生の劇だったので、おれは赤ん坊のイエスで、ずっと目をつぶったままであった。

 キリスト教よりは仏教のほうにおれは親しみがあり、といっても、葬式仏教とお寺拝観程度の付き合いしかないが、まあ、それでも、イエスよりはお釈迦様のほうに馴染みがある。

 クリスマスというお祭りには、クリスマスツリー、サンタクロースとトナカイ、クリスマスケーキと、強いシンボルが複数揃っている。うがった見方をすれば、布教の道具立てとして実によくできている(もっとも、この宗教ぐずぐずの国では……それはもういいか)。仏教のほうもお釈迦様の誕生祝いである花まつりをどうにかすればいいのに、と思うのだ。

 クリスマスツリーに対抗するとすれば、やはり、菩提樹か。お釈迦様はその下で悟りを開いたという。

 

Anandabodhi

 

 地味である。小さなやつを家の中に置いても盆栽に見えるだけだ。

 サンタクロースのほうはどうか。袋を持って方々まわる人が、仏教にも都合よくいる。布袋さまだ。中国に実在した仏僧だという。背中にしょった袋におもちゃを入れて、子供達に配れば、喜んでもらえるだろう。いっそ、布袋の格好をした人を、ホテイ・クロース、あるいはヌノフ・クロースと呼ぶことにしたらどうか。

 

Tsuhozan Mirokuji 08

ホテイ・クロース

 

 しかし、こんな風体の人間が街をうろつき、煙突から家に忍び込もうとしたら、ただの不審者である。出くわした子供達が泣き出しそうだ。

 クリスマスケーキの代わりはどうか。饅頭か。ヨーカンか。

 全体にどうも地味である。あるいは、お釈迦様のキャラクターが現代の仏教にも案外と残っているのかもしれない。