出家者も生きねばならない

 先週に続いて、仏教の話。とはいっても、中村元先生の初期仏教の話をもとに、思うことを勝手に書き散らすだけである。

 インドの初期仏教の出家者たちは、お釈迦様も含めて、あちこちを移動していたという。一応、寄進を受けた土地なんかはあるのだが(祇園精舎もそのひとつ)、雨季をのぞいて定住はしなかったらしい。修行者は森でひとりいることを楽しめ、みたいなことが経典に書いてあったりする。

 これはまあ、インドが暑熱の国ということもあるのだろう。裸や裸に近い格好でも暮らせるし、雨をしのげる程度の屋根なり覆う何かがあればよいのだと思う。

 食事は、もっぱら朝の托鉢だけ。おそらく、インドには聖者や出家者に食事を分けるのが当たり前という習慣があったのだろう。

 これが中国に入ってくると、なんといっても、冬、寒い。インドの出家者のように外で暮らしていては死んでしまう。そこで建物の中に住む必要が出てくる。建物を建てるには寄進を受けるか、お金を集めなければならない。しこうして、朝廷なり、有力者なりに、取り入るとは言わないまでも、寄付を受ける必要が出てきたのだろう。インドの出家者は基本、労働をしないが、中国の禅宗の中には農園を耕すことも出てきた。

 日本に入ってきた仏教も、最初の頃は朝廷や有力者の強い支援を受けてきた。東大寺は国立であるし、興福寺藤原氏菩提寺として発展した。時代が荒れてきて国の直接的な支援を受けにくくなると、荘園を持つようになる。東大寺なんかは相当大きな荘園主だったようだ。

 さらに時代が進んで江戸時代となると、大寺院なら幕府や有力大名の庇護を受けられる。一方で、小寺院の僧たちもなんとか食っていかなければならない。これはおれの勝手な推測だが、いわゆるお布施というやり方は小寺院が「食べていく」ために利用した手法なのだと思う。葬式だの、法事だのでお布施を受けることでなんとか食べていくことができる。「葬式仏教」と日本の仏教は悪口を言われることがあるけれど、坊さんだって最低限の衣食住は必要であって、自然と葬式や法事で小規模な寄進を受けるようになっていったのだと思う。まあ、お布施は日本版の托鉢とも言える。

 インドの初期仏教では形式張った葬式はやらなかったようだ。荼毘に付すなり、川に流すなり、言ってしまえば死体を処理するというだけのことらしい。

 インドから流れ流れて、日本まで来て、仏教は葬式仏教と悪口言われるようになったけれども、まあ、出家者(坊さん)も飢死、凍え死にするわけにいかず、どうにか身を立てなければならない。自然な流れといえば、自然な流れと思う。

 ・・・などとぐだぐだ書いたが、こういうのは外的な理解であって、己の内面の修養とは何も関係ない。外的なことをわかった気になっても、悟りにも至らなければ、解脱、涅槃にも至らない。外的なことと内面の話はちょっと別のことである。