原始仏典

原始仏典 (ちくま学芸文庫)

原始仏典 (ちくま学芸文庫)

  • 作者:中村 元
  • 発売日: 2011/03/09
  • メディア: 文庫

 

 仏教思想学の大家、中村元先生が原始仏教の経典について記した一冊。NHKのテレビやラジオで講義したものが元になっているそうで、語り口はとてもやわらかく、わかりやすい。

 原始仏典は比較的初期の仏教の経典で、釈迦の言葉やその直弟子たちの言葉やその少し後と思われる詩句が記されている。もっとも、今に残る原始仏典はパーリ語(元は西インドの俗語)で書かれているが、釈迦自身は中インドのマガダ語で説法したと考えられ、釈迦の時代からは少しく時代が経った頃のものらしい。翻訳されたと考えられるので、今に残る原始仏典の原型があったのかもしれない。

 語られていることは現代に普通に暮らす我々にとってもわかりやすい。神々や悪魔のような超自然的存在はあまり出てこず、釈迦の誕生時や釈迦の修行時代などに伝説、あるいは象徴として少し語られる程度である。たとえば、悪魔についてはこんな具合。釈迦が語る。

 

ネーランジャー川の畔にあって、安穏を得るために、つとめはげみ専心し、努力して瞑想していたわたくしに、

(悪魔)ナムチはいたわりのことばを発しつつ近づいてきて、言った。

「あなたは痩せていて、顔色も悪い。あなたの死が近づいた。

 あなたが死なないで生きられる見込みは、千に一つの割合だ。きみよ、生きよ。生きた方がよい。命があってこそ諸々の善行をなすこともできるのだ。」

 

 もちろん、文字通りの悪魔が現れたとも考えられるが、自分に対する弱い自分の言い訳、弱い自分の心の言葉とも受け取れる。卑俗な例で情けないが、酒を飲みたくなったときに自分に「時にはリラックスして、心をほぐすことも大切だ。明日のために今は飲むのがいいのだ」などと言い聞かせてしまうようなものかもしれない。

 日本の伝統的な仏教では加持祈祷のような呪術が行われたり、諸神・諸仏や、超自然的な世界(たとえば、極楽、地獄)が現れるけれども、そのようなものはほとんど出てこない。今の我々の感じる現実世界と釈迦の住んでいた世界はとても近しい。たとえば、涅槃(ニルヴァーナ)というと、日本ではあの世のように捉えられることも多いが、釈迦の言葉はもっと普通である。

 

「ヘーマカ(稲本註:釈迦に質問した学生の名前)よ。この世において見たり聞いたり考えたり識別した快美な事物に対する欲望や貪りを除き去ることが、不滅のニルヴァーナの境地である。」

 

 涅槃は欲望、執着のない心の状態のことを言っている。

 老いによる衰えに悩むピンギヤという学生に対しては、こんなことを言っている。

 

「ピンギヤよ。ひとびとは妄執に陥って苦悩を生じ、老いに襲われているのを、そなたは見ているのだから、それゆえに、ピンギヤよ。そなたは怠ることなくはげみ、妄執を捨てて、再び迷いの生存にもどらないようにせよ。」

 

 釈迦の臨終のシーンは感動的だ。まずは、長年、釈迦の身の回りの世話をした弟子アーナンダに語る。アーナンダは死を目前にした釈迦に号泣している。

 

「やめよ、アーナンダよ。悲しむなかれ、歎くなかれ。アーナンダよ。わたしはかつてこのように説いたではないか、ーーすべての愛するもの・好むものからも別れ、離れ、異なるに至るということを。」

 

 諸行無常というのは何か壮大なことのように捉えられがちだけれども、少なくとも釈迦のこの言葉はわかりやすく、シンプルである。

 アーナンダに対する次の言葉が美しい。

 

「アーナンダよ。長い間、お前は、慈愛ある、ためをはかる、安楽な、純一なる、無量の、身とことばとこころとの行為によって、私に使えてくれた。アーナンダよ、お前は善いことをしてくれた。」

 

 そして、まわりの者たちに最後の言葉をかける。

 

「さあ、修行僧たちよ。お前たちに告げよう。『もろもろの事象は過ぎ去るものである。怠ることなく修行を完成しなさい』と。」

 

 この後、釈迦は息をひきとる。釈迦の生涯には奇跡も魔法もなかったようだ。

 日本の伝統的仏教が今のような形になったのにはそれ相応の理由があるだろうし、釈迦から二千五百年も経てば、いろいろなものが加わったり、変化したりもするだろうと思う。

 しかし、おれは原始仏典に書かれた釈迦の言葉が響くし、修行はとてもできそうにないけれど、釈迦の言葉は知恵(知る者の恵み)だと感じた。