志ん生の駄洒落

 おれは今週夏休みなのだが、天気の悪い日が続いてほとんど家でぽやぽやしている。火曜日に台風一過の晴れた日があって、ちょっと風は強いが、自転車で西へと向かった。

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 府中の東京競馬場から府中の森公園、多摩霊園、武蔵野の森公園とまわった。行って帰って5時間くらいかかる。37度の炎天下で、自転車で走るのは馬鹿である。途中でへばったが、「2021年府中の旅だ! そうFacebookに書くのだ!」となぜかそれだけを心の支えにしてペダルを漕いだ。帰りの玉川通りで限界に達して、コンビニで倒れ込みそうになった。やはり、馬鹿である。

 帰ってからFacebookに写真とともに「2021年府中の旅。」と書いたら、なかなかの好反応であった。やはり、人間、捨て身のやつにはかなわないのだ。

 駄洒落というのは好き嫌いの激しい笑いの手法であって、隙あらば駄洒落を挟もうとする人もいれば、蛇蝎の如く嫌っている人もいる。おれもどちらかというと後者なのだが、「2021年府中の旅。」だけは自分で妙に気に入った。

 駄洒落で笑わせるには、というか、おれが笑いたくなるには(自己中心的で相済まぬ)古今亭志ん生くらいのニンとテクニックがあらまほしい。たとえば、志ん生に「タコが寝ていて、タコね山」という駄洒落があって、あまりにくだらなくて笑ってしまう。

 このすっとぼけた、しかし、おそらくは計算のある笑いは何だろう。志ん生の川柳を思い出す。

ビフテキで酒を呑むのは忙しい

借りのある人が湯ぶねの中にいる

恵比須さま鯛を逃して夜にげをし

 どれも実にすっとぼけている。「タコが寝ていて、タコね山」と同じ抜けた感じでこの一貫性は何だろうか。それが志ん生のニンだよ、と言えばそれまでなんだが、「境地」という言葉が浮かぶ。いや、別に崇高なものではなくて、もっとくだらないことをトボトボと考え続けた人の境地なんだが、いやもう、素敵だ。