よく言われることだけれども、悲劇というのは人間を間近で見て共感や同情などの感情を覚ええるもので、喜劇というのは人間をどこか突き放して見て「ああ、なんてバカなことをしてるんだろう」と笑うものだと思う。この「なんてバカなことをしてる」には自分のことも含まれたりする。自分を突き放して見て笑えるわけで、そういう人はなかなか上等なんじゃないかとも思う。
最近また古今亭志ん生を聞き直すようになった。相変わらずバカバカしく、ナンセンスで面白い。
こんなのがある。道具屋(それもあまり上等じゃないところ)にあるものは本物か偽物かわかるもんではない、という話で、
「『これが石川五右衛門をう(茹)でた釜ですよ!』
『・・・ああ、そうですか』
これはね、どうもね、しょうがねえんですな。うでたの見ていた人もなきゃ、うでてた人もいないんだから」
この、「石川五右衛門をうでてた人」という言い回しが、志ん生師匠が言うとおかしくてしょうがない。石川五右衛門をうでてるんである。想像するとたまらないものがある。
釜茹でということが本当に行われたものなのかどうかは知らない。しかし、もし本当に生で見たら随分と残酷なものだろう。苦しみ、体が変化していく様子はちょっと正視できないのではないか。
しかしそれが、志ん生師匠みたいに「うでてた人」と表現すると、急にバカバカしく、可笑しくなる。おそらく、頭の中で、卵を茹でるようなのんきな絵に見えてくるからだろう。
冒頭に書いた通り、悲劇は間近で見るものであり、喜劇というかある種の笑いは突き放して人間のやることなすことの滑稽さを感じるものなのだと、志ん生師匠の落語を聞くとよくわかる。
なお、志ん生師匠の例で言うと、「石川五右衛門をうでた人」ではなく「石川五右衛門をうでてた人」という言い回しだから可笑しいのだろう。そういうところが芸というか、センスというか。