SNSの汚物

 東京オリンピックは今日で終わりだが(だったかな)、結局、全く見なかった。オリンピックの競技以外の部分、オリンピック精神だの世界がひとつになるだのその官僚主義だの建前だのナントカの祭典だのがイヤなせいもある。また、おれは東京オリンピックは中止すべきだと思っていたから、手のひらを返して楽しむのが申し訳ないせいもあった。

 しかしまあ、これほど直前までグダグダだったオリンピックというのもめずらしいのではないか。ザハの新国立競技場案のひっくり返りに始まって、サノケンのマークパクリ疑惑、「簡素なオリンピック」の手のひら返し、森さんの女性蔑視発言問題、直前になって小山田圭吾の過去の差別自慢インタビュー、元ラーメンズの誰だっけ、の過去のホロコーストネタ、エトセトラエトセトラ。

 それらにはネットでの暴露や揶揄、攻撃が大きく作用したようだ。ネットの暴風の威力を思い知らせる大会ではあったと思う。見てないけど。

 ネットの、特にSNSで作り出される空気というか、暴風域というのは一体まあ、なんなのかと思う。ひとつひとつは個人の書き込みで、たいがいは「正義」の側についてやっつける。それらが束になると、大変な破壊力を持つ。束になって攻撃する、個人が攻撃に晒される、という意味では、私刑(リンチ)と同じ構図である。というか、私刑そのものである。私刑のひどさ、残酷さというのは、攻撃される側が過ちを犯したかどうか、それが悪質だったかとは関係ない。見ていて、イヤなものである。

 前にも書いたが、攻撃する側は「正義」の主張を行いながら、実はその裏にはねたみ、やっかみ、やつあたりがある場合が多いんじゃないかと思う。正義を装ってということではなくて、正義が五割にねたみ、やっかみ、やつあたりが五割とか、三割七割とかいろいろな比率がある。

 SNSなどで誰かを否定したり攻撃したりする書き込みを見ると、イヤーな心持ちになることがよくある。まるでその人の出した汚物を見せられているようなふうで、げんなりする。おそらくたいていは、攻撃の書き込みをするその瞬間は正しいと思っていることがあるだろうし、書いてすっきりもするのだろうが、まあ、はたから見れば醜いし、みっともない。

 だれもが簡単に憂さ晴らしを兼ねて私刑に参加して汚物を出してスッキリして逃げられるとは、なかなかに恐ろしい状況である。

 などと書きながら、おれも同じようなことをすることがある。この文章だっておれのうさばらし三割だ。オリンピックを叩いて、イヒヒヒ、と喜んだ。いや、面目ない。