想像としての歴史、学問としての歴史

 相変わらずいきなりの話題で恐縮だが、歴史というのは汲めども尽きぬ興味の泉であって、世の中には歴史好きの人が大勢いる。おれも好きであって、読む本のおそらく三分の一くらいは歴史関係である。どこの地域とかどこの時代ということもなくて、その時々の興味で行き当たりばったり(行きあたってバッタリ倒れるのだ)に読んでいる。

 日本の歴史好きの人のうち、かなり多くが、司馬遼太郎の影響を受けているんじゃないかと思う。坂本龍馬ファンの多くが、司馬遼太郎の小説から入っているようだし、織田信長明智光秀豊臣秀吉徳川家康なんかの知識やイメージも司馬遼太郎から仕入れた人が多い。学問的にはともかく、驚嘆すべきことに(へへ)日本での一種の「歴史の常識」の多くの部分を司馬遼太郎が占めている。

 おれは歴史を追いかける姿勢というのは大まかに「想像としての歴史」と「学問としての歴史」に分けられるんじゃないかと考えている。「想像としての歴史」と「学問としての歴史」はさらにこんなふうに細分化される。

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 ミステリー的歴史というのは「あの事件の真相はこういうことだった」などと推理・想像・妄想を働かせるものであって、陰謀論なんかはここに含まれる。陰謀論というのは困ったもので、だいたいにおいて表に出てくるものではないから、どうにでも想像できるし、状況証拠とか利害関係からヒントを得て、わんさかとつくり出せる。

 講談的歴史というのは伝説やオモシロ話をもとに血湧き肉躍るストーリーを紡ぎ出すもので、司馬遼太郎はここに属するし、大河ドラマもたいがいこれだろう。歴史ロマンというやつだ。伝説というのは集団のアイデンティティーを形づくるうえで大きな働きをするから、非常に喧伝されたりもする。

 ミステリー的歴史と講談的歴史が「想像としての歴史」の代表格だと思う。

 一方の「学問としての歴史」は一応、何らかの学問的手続きを踏んで、なるべく齟齬を減らそうという約束事に縛られている。だから、想像としての歴史とは面白さのタイプが少し異なってくる。

 大きくは「理論的歴史」と「実証的歴史」に分けられると思う。実際には研究者は両者の間を行き来するのだが。

 理論的歴史というのは事実(と思われるもの)から理論を抽出するものもあるし、逆に理論をもとに事実を解釈するというものもある。後者の極端な例がマルクス主義的なんたらかんたらで、物事を一面的に見るばかりだったり、事実を無理くり当てはめたりすることが多くて、おれはあんまり好きではない。

 実証的歴史には人物・組織の歴史、統計的歴史、物証的歴史がある。統計的歴史というのはたとえば人口動態や土地利用の変化などを扱うもので、歴史人口学なんかが代表的だ。その時代、その時代の人々の暮らしぶりが垣間見えて、なかなかに面白い。

 物証的歴史は考古学が代表的で、モノから歴史を見る。

「想像としての歴史」と「学問としての歴史」には呼応するところもある。たとえば、ミステリー的歴史(想像としての歴史)と理論的歴史(学問としての歴史)は頭の中の作業が多いところが近い。また、ミステリー的歴史・講談的歴史と、人物・組織の歴史(学問としての歴史)はしばしば混同されてしまい、その結果、伝説やら事実やら、想像やら実証やらがぐちゃぐちゃ、ぐだぐだになっているのが日本の「歴史」愛好者の実態だと思う。

 まあ、その混沌状態が歴史方面の活気を産んでいるのだろうが、講談やミステリーと事実を一緒くたにしてしまうのは、ちょっとみっともない。講談は講談として楽しめばよいと思うのよね。