音楽と体験

 ご存知の通り、音楽を聴くとき、人間は勝手なイメージを付加して聴きがちなものである。そのイメージによって体験がより豊かなものに感じられたり、ネガティブなものに感じられたりする。
 おれがまだ凄まじい美少年だった頃、ボズ・スキャッグスの「We are all alone」という曲が流行った。おれはあんまり英語が得意じゃないもんだから「私たちはみな孤独なのだ」と勝手に解釈し、また孤独とか憂愁とか、そういうイメージに奇妙な憧れを抱きがちな年頃だもんだから、「うん、うん、本当はみんな孤独な存在なんだよな」などと感動しながら聴いていた。後で歌詞の内容が、「おれたち今、ふたりっきりだぜ。灯りを消してよろしくやろうじゃないか、ウヒヒヒヒ」と知ったときの「だまされていた!」感は相当なものだった(勝手にこっちが勘違いしていただけなのだが)。
 で、例の佐村ナントカの代作騒動である。おれはそれまで、そもそもその佐村ナントカという人のことすら知らず、音楽も聴いたことがなかった。
 試しに、交響曲「HIROSHIMA」を聴いてみた。何かこう、えらく深刻そうで、笑いそうになってしまった(しかしまあ、あの大仰な曲調で、しかも「作曲者」が被爆二世の全聾という前提で、タイトルが「HIROSHIMA」というのはさすがにあざとすぎるんじゃないかと思う)。
 おれには深刻そうなものを聴くと茶化してしまいたくなる悪い癖がある。深刻な状況からはいち早く逃げることにしているので、おそらく、脳が卑怯者と化しているのだろう。試しに、あの曲のタイトルが「HIROSHIMA」ではなく、「ADACHI-KU」だったらどう感じるんだろうか、やってみた。

佐村河内守作曲 交響曲第一番「ADACHI-KU」
 不思議なもので、「これは足立区についての曲なんだ、足立区についての曲なんだ」と念じながら聴くと、頭の中に、買い物のビニール袋からネギを出して、逃げ回る悪ガキどもを怒鳴るおっかちゃん(コメカミに膏薬が貼ってあるとなおよい)や、走り回るドラ猫や、昼から道ばたでワンカップを飲んでシヤワセになっている初老のオッサン達や、借金ばなしがこじれた末の大喧嘩等々が、音楽の大仰な印象に導かれながら、独特なイメージを伴って浮かんでは消えていく。
 足立区在住の皆様、偏見でしょう。申し訳ございません。
 東京の、しかも一部の人にしかイメージがわかないかもしれないが、ベートーベンの「田園」でやってみる。

ベートーベン作曲 交響曲第六番「田園都市線
 それなりに電車からの沿線風景が頭に浮かぶから不思議である。
 東京ばかりでは申し訳ないので、今度は大阪へ。

ドヴォルザーク作曲 交響曲第九番「新世界」
 もちろん、「新世界」とはアメリカ大陸ではなく、通天閣周辺のあのあたりのことである。目を閉じて聴いていると、急にあの界隈が男の勝負の世界に感じられてくる。勝負師達の闘いと休息。坂田三吉が歩いている。
 まあ、しかし、こういうおちょくりにぴったりなのはやはりベートーベンである。無駄に深刻だからだろう。ありきたりだけど、例のやつ。


ベートーベン作曲 交響曲第五番「またフラれた」
 突然フラれた瞬間の衝撃、甘い思い出、そしてまた衝撃の現実に戻る・・・というドラマが見事に表現されている。
 ところで、佐村河内守が「現代のベートーベン」なら、ベートーベンは「十八世紀の佐村河内守」だったのだろうか?