クラシックへの目覚め

 おれはガキの時分、もっぱらクラシックしかかからない家に育って、かえってクラシックに抵抗感を覚えるようになってしまった。

 特にひとつ年上の兄がクラシックに傾倒していたので、反抗心もあって、ジャズやロックをもっぱら聞くようになった。あるとき、兄に向かって「クラシックは死んだ音楽だ!」などとぬかしたことを覚えている。いや、お恥ずかしい。

 五十を過ぎた頃からクラシックを少しずつ聞くようになった。年齢のせいなのか、たまたまなのかはわからない。

 最初はバッハ、ラヴェルドビュッシーあたりで、ラヴェルドビュッシーはその色彩感のある繊細微妙な音の並びが好きになった。映画音楽みたいで聴きやすいというのもある。バッハはあるとき、G線上のアリアに取り憑かれたようになった。昔から知っているのに、なぜかはよくわからない。

 その後、ラヴェルドビュッシーの流れでフォーレを聞くようになった。おれにとってはフランスの19世紀後半あたりというのが音の感覚的にしっくり来るようである。

 この頃はベートーヴェンショパンを少し聞いている。

 ベートーヴェンは元々、あの脂っこいしつこい感じが苦手だったのだが、特にピアノ曲など、いいものはいいな、と感じ始めている。大仰な交響曲はまだしっくりこない感じが強い。

 ショパンは月並みだが、「別れの曲」が好きだ。センチメンタルでよい。

 よくわからないのがモーツァルトで、これまでも何度も挑戦したのだが、ピンと来ない。おれは音楽的白痴なのだろうか。

 いわゆるロマン派と言われる人たちも苦手で、ベートーヴェン交響曲の大仰な感じが苦手なのと理由は同じである。

 まあ、今苦手な人や曲もそのうち、ピンと来るようになるのかもしれないが。

 同じ曲でも聴き比べてみると、演奏者によって全然違う表情を見せる。そのあたりの面白さ、感覚がおれにはずっとわかっていなかったようで、「クラシックは死んだ音楽だ!」などとぬかしたのは知らないものを否定するという例のよくない心理によるのだろう。

 愚かさが見にしみるぜ。