世間の考え方とわたしの考え方

 このところの地球環境方面および省資源方面の倫理観の浸透というのは大したもので、たとえばわたしも、いかにも燃費の悪そうなアメ車を得意がってぶいぶい走らせている人を見ると「ケッ」と思うし(羨ましさの裏返しでもあるんだろうが)、買った商品が過剰包装されていると「無駄だよなあ」と思う。あるいは、電化製品を買う際、「消費電力○%オフ」などと書いてあるとそっちを買おうかと考える。電気代の節約のためではなく、資源を使わずに済むような気がするからだ。そうして、そんなふうに考えている自分に気づくと、“おれもいい加減なもんだなあ”と苦笑する。

 地球環境方面およびそこから派生する省資源方面の話が一般の消費にまで降りてきたのは、1990年代中ごろだろうと思う。当時、わたしはデザイン誌の編集部にいて、プロダクトにまつわる話もよく扱っていた。地球環境保護を視野に入れたデザインというのがその頃、特にヨーロッパから出てきたのだが、「そんなもん売れないよな、すぐ廃れるよな」と思っていた。人間というのは購入の際にはしょせん自分勝手なものであり、地球環境保護を謳う値の張る商品より、安い商品を選ぶだろう、と考えたのだ。

 それから十数年が経った。今では、地球環境保護を謳う商品はざらにあり、ざらにあるということはちゃんと売れているということだろう。わたしも、何かを買う際にはその手の釣り文句にしばしばノセられてしまう。「おれにはおれの考えがある。世間の風潮になんぞ惑わされず、おれはおれの判断を下す」などとうそぶいていても、なに、その実、いつの間にか世間の大勢と同じ考え方をするように変わってしまっているのである。いい加減なものだ。

 逆に考えると、世間の考え方の浸透力というのは大したもので、いつの間にやらひとりの人間の感じ方・判断の方向を変えてしまう。一般論にしちゃいかんか。少なくともわたしはまんまと変えられてしまう。もしわたしが1960年代に大学生だったら学生運動のシンパになってヘルメットに角棒で安保反対なんぞと叫んだかもしれないし、戦前・戦中に生きていたら軍国主義にさして疑問も持たず、アカを小馬鹿にしていたかもしれない。

 だからといって、みんな世間のせいなのだ、などと言い出すつもりはない。あれこれ食った後で出てくる口臭はやはりわたしの口臭であるし、脂とデンプンの摂りすぎでデブになったとしてもたぷたぷ揺れる脂肪はやっぱりわたしの体の一部である。