富山弁で落語

 わたしは富山で生まれ育って、大学に入るとき、東京に来た。以来、東京近辺でのそのそしている。


 富山弁というのは全国的にはあまり知られていないが、なかなかディープな言葉だ。
 地元の酒の席でこれが飛び交うと、初めて聞いた人は何を言っているのか、半分くらいしかわからないそうである。


 不思議なもので、わたしは実家に帰るとすらっと話せるのだが、東京にいると、なかなか出てこない。無理に話そうとすると、「あれ、こんな言葉遣いでいいんだっけ?」となる。


 気恥ずかしい気持ちがあるせいか、あるいは無意識のうちに「やめとけ」とセーブする力が働くせいか。どこか「身内の恥」という感覚もないではない。いや、後進的で面目ない。


 ヘイ、マザー(ままよ)、どういう言葉か、試しに書いてみたい。


 古今亭志ん生の「志ん生滑稽ばなし」(ちくま文庫)から「岸流島」を、富山弁にしてみよう。


 えー、モノが開けてくるゆうがは、おそろしいもんでねえェ、どこ行くがも、のりもんがえらい便利ながやちゃ。
「あー、ちょっと、アメリカまで、風呂行ってくっからァ、晩飯はメザシでも焼いといて」
「アメリカまで、お風呂け」
「ウン、ニューヨーク(入浴)」
 ゆうてねえェ、今は乗り物も便利なったけど、むかしゆうと、そいがじゃなくてねェ、どこ行くがも、みんな歩いたもんやねか。それがだんだんと、のりもんが出来て来たがやちゃ。
 一番はじめ、新橋から横浜までえェ、汽車が出来たときは、これを陸蒸気ゆうたがやちゃ。これには、ずいぶん人がおどろいたもんやねか。
「えー、馬もなンもおらんがよ、そんで動くがやからねえェ」
「ほう、それへ、あんた、乗ってったんけ」
「あー、わし、乗ったわ。あれはちょっとした度胸の者じゃ乗れんわ」
「そうけ?」
「そうやわ、えー、凄いもんだわ。陸蒸気ゆうがは、乗るとねえェ、いろんなものがとんで来っからねえェ。電信柱やなんか、みんなとんでくんがよ。それを、うまくよけんがやちゃ、あれはねえェ、ウン。しまいには、山がとんで来っから、おどろいたわどうも。え、海が来るゆうと、そいつもよけんがやぜ……」
 ゆうようなわけわからんこと、そのころゆうとったもんやけどねえェ……。


 自分で訳しながら、いささか心もとないが、何だか民話みたいでもある。


 志ん生は、例えば、最後のセリフのところを、


「そうよォ、えー、凄いもンだぜ、陸蒸気てえなァ、乗るってえと、いろンなものがとんで来るからナ、ウン。電信柱やなンか、みんなとんできやがる。そいつを、うまくよけるね、ありゃァ、ウン。しまいにゃ、山がとんで来やがったから、おどろいたぜどうも。え、海が来るってえと、そいつもよけちまうんだ……」


 とやっている。やはり、こちらのほうが勢いというか、スピード感がある。東京の下町言葉の特徴だろう。


 同じ本から「強情灸」。どれだけ灸をすえられるか、我慢大会みたいな噺である。
 友達の自慢話を聞いていた意地っ張りな男が、我慢できなくなって、啖呵を切るところ。志ん生はこうやっている。


「なんだよォおいッ、いやな野郎だなこいつァ。え、コレっぽちの灸をすえて来やァがって……。おれだって、いますえようと思ってたとこだい。やいッ、もぐさァ持って来いッてンだ、こんちくしょう!
(以下、略)」


 富山弁に直すと、こうなる。


「なにけ、えッ、いやな男やねェ。え、こんだけの灸をすえて来たゆうて……。わしもいますえよう思とったとこながやぜ。もぐさ持って来てゆうがんぜ、ダラめ!
(以下、略)」


 そもそも富山には啖呵を切るという感覚が希薄なので、どうにも訳しにくいが、やはり、どこかのんびりしてしまう。


 自分で方言に訳してみるとよくわかるが、少なくとも志ん生(全盛期は昭和二十年代〜三十年代前半)の時代まで、東京落語は地元の言葉(下町言葉)や風俗習慣、気風に根ざした、地域の伝統芸能だったようだ。
 だから、それを単純に他の土地の言葉に訳すと、全然別の種類のものになってしまう。


 今の東京は、下町言葉がほぼ滅亡し、全国から人が移住してくる一種、透明に近い都市となった。
 言葉も平均化して、東京落語は今、難しい位置にあると思う。


 が、しかし、それは話がそれるうえに、テーマが大きすぎるので、今日はここまで。


志ん生の噺 1 (ちくま文庫)

志ん生の噺 1 (ちくま文庫)

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「今日の嘘八百」


嘘七百四十一 水が割れた葦の海を渡る途中、イスラエル人達は集団心理により、いっせいに走り始めたという。