東京落語の言葉

 相変わらず、ちょぼちょぼと落語の会に行っているが、この頃は東京落語より上方落語のほうが好ましい気がしてきている。


 東京落語も、いろいろな人が頑張っているのはわかるが、どうもふわふわと落ち着かないというか、腰の座りの悪い印象を受ける(頑張っている姿を見にいってるわけでもないし)。


 ひとつには、言葉の問題が大きいように思う。


 馴染んでいない口調で、「〜するってえと、噺が始まるわけで」なんてやられると、「一生懸命、下町言葉でやろうとしているのは、まあ、わかるよ」と思う。シジミの味噌汁を飲んだら、砂が混じっていたような心持ちになる。


 では、今の言葉を、というので、東京近辺で使われている首都圏方言(と呼ぶのだそうだ)に差し替えればいいかというと、それはもちろん安直で、実際にやってみればわかる。


 五代目古今亭志ん生の「志ん生滑稽ばなし」(ちくま文庫)から、「饅頭こわい」の一部を首都圏方言に変えてみよう。


 まず、古今亭志ん生(全盛期は昭和二十年代〜三十年代前半)はこうやっている。


「だから、好き嫌いってことは、あらァな。えッ、犬の好きな人見ろよ、え、おめえ、高(たけ)え銭を出して……いろンな犬があるだろう、このごろは……え、こう……耳の長ェ犬だの、それから身体(からだ)じゅう糸ッくずみてえな犬がいンな……アレほどくと、犬がなくなっちゃうようなのがいるよ。そういう犬でもなんでも、高え銭を出して買って、犬にうめえものを食わして、自分は食うものも食わねえで……え、犬に食わして、犬がふとって、てめえがやせちゃったりする……。そいだって犬が好きだから、しょうがねえや、な」


 実にもって、「落語」という感じがする。


 では、首都圏方言版。


「だから、好き嫌いっていうのは、あるんだよな。犬の好きな人見ればわかるけどさ、高い金出して……いろんな犬がいるだろ、このごろはさ……こう、さ……耳の長い犬とかさ、それから身体(からだ)じゅう糸くずみたいな犬がいるじゃん……もう、ほどくと、犬がなくなっちゃう、みたいな。そういう犬でもなんでも、高い金出して買って、犬にうまいもの食わせてさ、自分は食うものも食わないで……ねえ、犬に食わせて、犬がふとって、自分がやせちゃったりして……。それだって犬が好きなんだから、しょうがないじゃんねえ」


 文章だから、というせいもあるが、だから何なのだ、という感じだ。真ん中あたりで「じゃん」や「みたいな」を入れてみたら、春風亭昇太になってしまった。


 まあ、やはり、安易な差し替えはキビしい。弁天小僧が「知らなきゃ言って聞かせましょう!」では、やはり、台ナシだろう。


 東京落語の言葉遣いは、おおざっぱに言って三通りのやり方が考えられる。


1. 下町言葉を墨守する。
2. 下町言葉の風味を残す。
3. 首都圏方言でやる。


 1は、今、下町言葉を日常会話として使えるのが70代以上の人達だから、なかなか難しい。
 そういう人達から教わった師匠連から教わるか(先々、心もとないが)、昔の録音から学ぶほかないだろう。失敗すると、最初に書いたような砂入りのシジミの味噌汁、となる。


 2は、ナンチャッテ下町言葉というか、それっぽさだけ使う方法。首都圏方言とのチャンポンというか。妥協とも言える。
 立川志の輔がこのやり方で、本人も、たぶん、「自分が使っているのは下町言葉ではない」ことを意識していると思う。


 これを書くために聞き直してみて意外だったのだが、年を取ってからの立川談志は3の「首都圏方言」だった(噺によって、多少、違いがあるかもしれない)。
 若い頃の録音では下町言葉を使っているから、たぶん、意識的に変えていったのだろう。
 聞いていて違和感を覚えないのは、「立川談志」という個性ができあがっているからなのだと思う。


 己の語り口を確立すべし――では、結論として当たり前すぎるけれども。確立した後でも、東京落語には、ああ、何か満たされないの、アタシ、という部分が残るかもしれない、ということかな。


 大阪弁がガシッと残っている上方落語と比べて、下町言葉と首都圏方言の落差が大きすぎる東京落語は、これから難しいと思う。
 別に“江戸情緒”を求めているわけじゃないのだけれども。何かね、上滑りの感じを受けることが多いんですよ、近頃。


志ん生の噺 1 (ちくま文庫)

志ん生の噺 1 (ちくま文庫)

                  • -

「今日の嘘八百」


嘘七百五十七 目の前でクルクルやるとトンボが止まるのは、「この人はなぜこんな馬鹿みたいなことをしているのだろう?」と考え込んでしまうからなんだそうだ。