たまに、テレビなどで、落語家が仕草を演じ分けてみせることがある。
たとえば、うどんを食うときはこうだが、そばを食うときはこう、とか。
それ自体は別にいいのだが、司会者なんかが「落語ってすごいんですねえ」などとわざとらしく感心してみせると、ンー、と思う。
あんまり本質的なことじゃないというか、そんなところがすごいってことにしちゃっていいのかね……。
どうもうまく表現できないが、少なくともわたしが落語をいいなあと思う部分と、うどん、そばの食い方はあまり関係なさそうだ。
いや、客を噺の世界にどんどんたぐり寄せるためには、いろいろ手練手管が必要だろう。しかし、その手練手管、技巧の一部だけを取り上げて、賞賛してもしょうがないと思うのだ。
魂っつーか、ソウルっつーか、スピリッツっつーか、霊っつかーか、肝っつーか、一念っつーか、ようわからんけど、いい出来の一席には何かがあるのよね、奥のほうに。エラソーに書いてスマンけど。
少し前に、桂歌丸が、「落語は言葉を丁寧に選んでいるんです。だから、落語を聴くと、美しい(正しい、だったかな?)日本語がわかるようになるんです」というようなことを言っていた。
そういう理由で落語を聴くのも、ヤなもんだな、と思った。
立川談志が、生意気盛りの二十代のときに書いた「現代落語論」はこういう文章で終わっている。
最後にもう一度いう。人間未来を想像することは出来ても断言することは出来ないだろうが、落語が「能」と同じ道をたどりそうなのは、たしかである。
わたしは別に談志信者ではないけれども、落語は確かにそういう危険性と隣合わせだと思う。
高い志を持ち、芸として高い場所を目指すのは結構なことだと思うけれども、それが“高尚”のほうへ行っちゃうと、なんだかね、つまんない。
-
-
-
-
-
-
-
-
- -
-
-
-
-
-
-
-
「今日の嘘八百」
嘘二百八十八 「文芸」とは本来、文の芸能のことである。