志ん生師匠のたとえ

 最近は会社との行き帰りに携帯音楽プレーヤーでもっぱら古今亭志ん生を聞いている。おれにとっては落語を聞くようになったきっかけの人であるし、どこか「帰ってきた」という感じがある。

 志ん生師匠の凄いところは数々あるけれども、そのひとつにたとえの上手さがある。何かの具合を全然別のもので表す一種の言葉遊びである。

 たとえば、長屋の狭い家の中で夫婦げんかが始まる。女房が大声でまくしたてると、亭主が「目の前で船を見送るような声を出すんじゃないヨ!」などと言う。志ん生師匠の、こういう搦め手から来るたとえにはたまらないものがある。

 借金を返さない相手が再び金を借りに来て、「おまえには貸せない。出しっぱなしになっちゃう。公園の水道の蛇口みたいになっちまうからダメだ!」などと言う。こういう表現を聞くと、おれは即座に殿山泰司と化して、ウーン!!と唸ってしまう。

 もっとくだらないのだと、「むく犬のケツ、何だかわからない」なんていうのもある。確かにむく犬の尻は何だかわけがわからなそうである。

 どこまでが落語の伝わってきたギャグで、どこからが志ん生師匠のオリジナルなのかわからないが、出かけて、成り行きで女郎屋に泊まった亭主に、女房が「この、上げ潮のゴミ!」とつっかかるのもある。そのココロは「途中で引っかかる」で、実にどうもたまらない。こういうのは志ん生師匠というよりも江戸〜東京の下町世界における言葉遊びの豊かさから来ているんじゃないかと思う。

 この手の上手いたとえは、物事をウラから見たり、遠くから突き放して見たりしているからできるのだろう。皮肉な物の見方が生きているのだと思う。最近ではーーといっても十数年前だけれども、まだギラギラしている頃のビートたけしもたとえがバツグンに上手かった。スルドいたとえのできる芸人がまた現れないかな−、いたらファンになるんだけどなー、と思っている。