普段は、何をやった、何があったということをあまり書かないのだが、今日は記録として。
昨日、立川談志の会に行った。
談志の弟子、孫弟子達が一席やって、漫談があって、最後に御大登場、という会。
休憩前に出てきた立川談笑がまず客を沸かせた。
バイタリティの塊のような人で、思いつく限りのギャグを咄に放り込むというふう。
わたしは、おかまとミッキー・マウスとユダヤ人が出てくる古典落語というのを初めて聞きました。
しかし、その後に出てきた漫談の松元ヒロがもっと凄かった。
どう凄かったかというと、ここには書けないくらい凄い。
政治家など(など、の部分に含まれるのは、日本でタブーとされる方々である)の物真似を交えた漫談で、本人曰く「テレビから声がかかったら、私のほうは断るつもりはないのですが、テレビ局の側で私を出すといろいろ問題があるようで」、「今日は裏口から帰ります」。そういうヤバい話。
ネタはヤバくて書けない。書いたらこのページが炎上する。
形としては政治風刺ということになるのだろうけれども、新聞やなんかの、冗談(とおぼしきもの)を使って政治を叩こう、なんていうゲスな了見と違って(その実、政治に甘えているのだが)、松元ヒロさんは世の中をよくしようなんて考えていない。考えていたとしても、とっくに諦めている。そこがいい。
イヤー、ファンになりました。
機会があったら、ぜひご覧いただきたい。ただし、ツリ目にならない人のみ。
松元ヒロさんが客を見事にひっくり返し、裏口へ走って逃げた後、談志師匠、登場。
老いていた。本人もそれを認めていた。出てきたときは落語の仙人みたいだった。飄と座った姿の、紫紺の衣装が美しかった。
最初の一言が「私はもうダメです」。
凄いね。
体調も悪いのか、元々、かすれている声がいっそうかすれて、細かった。
談志師匠、もしかしたら老人性鬱なのではないか。昨日の高座でも言っていたが、他のところでも「死にたいという願望を抑えている」と語っている。
あるいは、体力の衰え、体調の悪さが気を滅入らせるのか。
山田風太郎の「人間臨終図巻III」(ISBN:4198606129。文庫は、ISBN:9784198915117)の古今亭志ん生・五代目の項にこんなことが書いてある。
四十六年にはこんなことをいった。
「ことしはなに年? 亥かい。八十一ンなるんです、あたし。やんなっちゃうね。どうしようかと思っちゃう。ほんとに。
八十ンなったとき、これから、なにやろうと思っちゃって、なにしろあなた、八十ってば、こりゃあ、もう……おじいさんですからね。
(中略)じっさい、ここまでくると、どこまで生きりゃいいんだって、いいたくなっちまう。ねえ、つまんないもう。いつもそう、なんかあると、ああ面倒くせえ、はやく参っちめいてえなって。けど、こればかりはね、まさか、刀持ち出し腹ア切るわけにもゆかないし、だいいち、そのう、ああいうことはやりつけないから、上手くいく気づかいがない」(「文藝春秋」昭和四十六年一月号「こうなりゃ、九十まで生きる」より抜萃)
談志師匠も同じような心持ちなのかもしれない。いや、もちろん、勝手な想像ですが。
しかし、咄が進むにつれ、ぐっと声が張り、高揚するから不思議だ。
そういうふうにコントロールできるものなのか、それとも咄というのは何か仕掛けを内蔵していて演者の中で自然と高まるものがあるのか、あるいはその両方なのか。
仮に老人性鬱だとしても、内にはヤラレないものがある、ということなのかもしれない――というのは、いささかロマンチックな、これまた勝手な想像。客でよかった。気楽な立場だ。
ここ一番の昂りと、諦めのようなものから来る明るさ。気づいたら、1時間経っていた。
終わった後で、これだけ満ち足りた気分になった落語の会は、今までなかった。外に出た後、来るときは予想していなかったが、爽やかな気分で駅まで歩いた。
キザな締め方だ。照れてマス。でも、そのまま残しておきマス。
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「今日の嘘八百」
嘘五百七十 来年のバレンタインデーには「白い恋人」の義理チョコ需要が相当見込まれるとか。