らくだ

 落語が好きで、よく聴く。あまり嫌いな噺(ネタ)はないのだが、例外のひとつが「らくだ」である。嫌いというより、苦手というほうが近いかもしれない。
「らくだ」はいろいろな落語家がやっている。大まかなストーリーはこうだ。「らくだ」と呼ばれる長屋の嫌われ者のところに兄弟分が訪ねてくる。名前は落語家によって「丁の目の半次」だったり、「ヤタゲタの熊」だったり、いろいろである。ところが、らくだは手料理したフグに当たって死んでいる。簡単な葬式をあげてやろうと思うが、金がない。たまたま通りかかった屑屋を脅かしてあちこち使いに行かせ、長屋から香典を集めたり、大家から酒と煮しめをせしめたり、漬物屋から棺桶代わりに漬物樽をもらったりする。この屑屋の使いのくだりが笑わせどころである。で、一通りもらうものをもらった後、兄弟分がご苦労さんと屑屋に酒を呑ませる。小心者の屑屋は呑むうちに人間が変わって、兄弟分にでかく出る。その後は、あまりやらないことが多いようだが、らくだの死骸を漬物樽に突っ込んで焼き場に向かい、ひと騒動あって、オチとなる。
 おれが「らくだ」を苦手と思うのは、どうやら屑屋が自分に似ているせいらしい。小心者のくせに、酒が入ると気がでかくなる。自分中心になる。そうして、(噺の中に描写はないけれども)酔いが覚めるとおそらくまた小心者に戻って、呑んでいた時の記憶に苦しむ。おれには屑屋の心の動きがよくわかるのだが、共感というポジティブな感覚ではなく、身につまされるという感でもなく、いっそツバを吐き捨てたいイヤな感情である。
 この点、特に立川談志の「らくだ」が強烈だ。談志の屑屋はやけにイジイジしているが、酒が入ると強ぶり、大言し、悲憤慷慨する。ほとんど狂乱状態になる。だから、談志の「らくだ」がおれは一番苦手だ。
 談志に限らず、他の落語家のCDを買ってたまたま「らくだ」が入っていると、イヤだなー、と思う。でも、もったいないから一応、聞く。そして、聴き終わってから、やっぱりイヤだったなー、と思う。
 ところが、それらの録音の中で、観客はゲラゲラ笑っているのである。おれは屑屋の中に自分の姿を見て、イヤだなー、と思うから、あっけらかんと笑う観客をちょっと不思議にすら感じる。人間のやることは、近づいて見れば悲劇だが、遠くから眺めれば喜劇になると言う。屑屋の行動を、おれは自分に似ているから悲劇に感じ、笑える観客は喜劇に感じているのだろう。羨ましい。
 先日、笑福亭松鶴(仁鶴や鶴瓶の師匠)の「らくだ」をCDで聴いた。松鶴の十八番ということは知っていたが、これまで松鶴の落語自体、あまり聴いたことがなかった。そうして、これがやはりいいのである。屑屋もらくだの兄貴分もあっけらかんとしていて、その分、すっと聴ける。飲み口のいい酒みたいだ。わあわあやりあって、うだうだごねて、「こんなやつら、いるなー」と感じる。上方落語で言う「我々、同様」というやつだろうか。これでいいのだ。