日本人のナンタラ、というタイトルの本を書店でよく見かける。売れているのか、平積みになっているものもある。
ナンタラの部分には「しきたり」だったり、「身だしなみ」だったり、何かその手の(いい加減だな)言葉が入るようだ。
そういう書名を見ると、怒られているような心持ちになって、わたしはつい身を縮めてしまう。
身を縮めてやり過ごすものだから(わたしの基本姿勢である)、読んだことはない。
一方で、その手の書名を見ると、「みっともないから、よしなよ」とも思う。人のコンプレックスというか、臓腑を見せられているようで、どうも気分がよくない。
どこがみっともないかというと、わざわざ「日本人の〜」とつけるところだ。
「覚えておきたいしきたり」とか、「身だしなみ20のポイント」とか、別にそんな書名でもいいだろうに、「日本人の〜」と持ってくる。
そう持ってくるのには、欧米へのコンプレックスが働いているように思う。
技芸、科学、学問、潜在的にいろいろな面で欧米(乱暴な捉え方だが)にはかなわない、圧迫を受けている感覚があって、あんまりぎゅうと押さえつけられると、パンと反発で膨れあがる。
それが「日本人の〜」調の物の捉え方だと思う。
圧迫感を覚えて、「悔しいなー」と感じているところで、パッと目を転じると、日本には茶道があるではないか、歌舞伎があるではないか、武士道があるではないか、俳句があるではないか、花鳥風月を愛でる心があるではないか。
でもって、参ったか、こっちにもこんな凄えもんがあるんだ、と鼻高々になるわけである。
しかし、そういうものに目を向けたそもそもの動機が不純だから(子どもが口げんかで先祖の家柄を自慢するようなものである)、あまり長続きしなかったり、底が浅いままで終わったりする。
そのくせ、その手の、コンプレックスからニッポン・バンザイになる人達は、海外からの評価に弱い。
浮世絵がヨーロッパの印象派に影響を与えたと聞けば、浮世絵の展覧会に出かけて感心したふうを見せる。アニメを好きでない人が(わたしもそうだ)、海外で日本のアニメの人気が高いと聞くと、「アニメは日本が誇る文化である」などというフレーズを平気で受け入れてしまう。
ミスター五千円札こと、新渡戸稲造センセーの「武士道」だって、あれが欧米で出版されていなかったら、今、どの程度の扱いを受けているだろうか。
内容的には怪しいところが多々あるし、何言ってんだかよくわかんないところもある。国内で出版されていたら、ほとんど忘れ去られて、センセーもお札の人として有名になるなんてことはなかったんじゃないか。
みっともないから、よしなよ。いや、ホント。
でも、出版社は「日本人の〜」とつけるのよね。なぜならそっちのほうが売れるから。なぜ売れるかというと、「知らないと恥ずかしいかも」という脅しが利き、コンプレックスを利用でき、みっともなさに気づいていない人が多いから。
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「今日の嘘八百」
嘘五百六十九 今、「日本人のウンコの仕方」という本を書いております。