相変わらずとりとめのない話題で申し訳ないが、海外のことを「向こう」と呼ぶことがある。話の前提がない場合、たいがいは欧米諸国のことである。「向こうではね、挨拶としてキスしたり、抱き合ったりするのは普通ですよ」なんていうふうに言う。この場合の「向こう」を東ティモールの話だと考えるひとはまずいないだろう。
どうして海外のことを「向こう」と呼ぶようになったのだろうか。地図的に海の「向こう」ということなら、朝鮮、中国、台湾、フィリピン、東南アジア、オセアニア、南米、北米を指しそうなものだが、そういう捉え方ではない。
相手先のことを「向こう」と呼ぶ習慣はある。たとえば、取引先との商談について、「向こう(取引先)の考えではこうらしいんですが〜」などと言ったりする。あるいは、縁談で「向こうの親御さんが〜」などとも言う。
そういうものの捉え方が敷衍して、少し距離のある相手先として海外の国や社会を「向こう」と呼ぶようになったのだろうか。確かにそういう使い方もあって、一般論ではなく、たとえば、中国に赴任していた人が「向こうではこれこれこうなんだよね」などと言ったら、その「向こう」とは中国のことを指す。
「向こう」と言うとき、我々はその相手先と距離があると考えている。すぐ近くにいる人のことを「向こう」とは呼ばない。「向こう」は、向こう三軒両隣の「向こう三軒」のように、間に何かがあるのだ(道とか)。
してみると、海外のことを「向こう」と呼ぶのは日本が海に囲まれたアジアの孤児状態にあるからなのだろうか。
話の前提がない場合に「向こう」がたいがい欧米諸国のことを指すのは、おそらく黒船以来、日本の人々が外国といえばもっぱら欧米諸国のことを連想してきたからなのだろう。日本で「海外」というと、おおよそは欧米諸国のことであり、朝鮮も中国もフィリピンもモンゴルもカザフスタンもパキスタンもシリアもトルコもアゼルバイジャンもチュニジアもニジェールもコンゴ民主共和国もパナマもグレナダもベネズエラもパプアニューギニアもパラオもあまり指さない。
言葉というのは何気なくそうした文化的背景とか歴史とかある種のコンプレックスとかも含んで使われるものであって、そうしたところが面白いとも言えるし、うっかりするといろんな事情がバレてしまうのでオソロシイとも言える。