コレクター

 物に興味が薄いせいか、コレクターの心理、というのが今イチわからない。


 何かが集まるとうれしいらしい、と知識としては知っているんだが、実感としてよくわからない。


 わたしは若い頃、随分、音楽のレコードやCDを買ったし、今は落語のCDをよく買う。
 しかし、それは聞くのが目的、少々イヤな言い方をすれば“使う”のが目的であって、ツマラないものならうっちゃっておいたり捨てたりしても平気だし、気に入ったものなら何度でも聞く(“使う”)。


 結果、CDが自然と集まるわけだが、身のまわりにたくさんCDがあるということについては、特に楽しいと思わない。今は、ケースがかさばるので、剥き身で段ボール箱に放り込んでいる。ケースは捨てる。


 コレクターの心理というのは、だいぶ違うようだ。


 彼らも見たり聞いたりと“使う”し、その喜びも味わうだろうが、それだけじゃなくて、集まってくること、身のまわりにたくさんあることが楽しいらしい。


 例えば、「猿が木から落ちるところの写真」のコレクターなんてのがいたとしたら、何枚もの「猿が木から落ちるところの写真」をアルバムに収めて、あるいは身のまわりに侍らせて(まるでお大名だね)、うひうひ言うんだと思う。


 で、彼(ら)なりに「猿が木から落ちるところの写真」の珍品もあれば、“何だ、つまらない”と思う「猿が木から落ちるところの写真」もある。しかし、“何だ、つまらない”「猿が木から落ちるところの写真」も一応は取っておく。量のほうの喜びに貢献するから。


 とまあ、そういうことなんじゃないか、と思うのだが、実感したことがないから本当のところはわからない。どうなんだろう。
 あるいは、もしそうだとして、どういう心の働きで何かをたくさん持っていることや揃えることをうれしく感じるのだろうか。


 トリビアというのか、やたらといろんなことを知っている人がいる。ああいうのも、もしかしたら、知識のコレクターなんじゃないか。


 彼らも、知識を披露して、“使う”ことはある。たぶん、披露しているときは楽しいんだろう(聞かされるほうが楽しいかどうかは別ヨ)。


 しかし、そもそも彼らは披露するために知識を得ているんじゃなくて、知識が自分のところに集まってくることに喜びを見出している気もするんだが、どうなんだろう。
 それとも、落語の「寝床」で下手な義太夫をやたらと聞かせたがる旦那みたいに、たくさん持っているものを披露することに喜びがあるんだろうか。


 これまた、実感したことがないから、わからない。


 わからない、わからない、とばかり書いている。まるで、わからないのコレクターである。

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「今日の嘘八百」


嘘五百六十八 わたしは何も知らないということを知っているということを知らないということを知っている、かなあ。