夏に忠臣蔵というのも季節はずれのようだが、ふと書いてみたくなった。
忠臣蔵については、歌舞伎、映画、テレビドラマ、小説、漫画といろいろに扱われているだけに、これまでいろいろなことが考えられ、議論されてきたのだろうと思う。
わたしは、忠臣蔵について通り一遍のことしか知らない。思いつきをテキトーに書く(いつものことだが)。
まず浅野内匠頭の、松の廊下の刃傷沙汰だが、普通に考えれば、癇癪、あるいは乱心だろう。
今なら、皇居の園遊会か何かで、赤穂市長がぶちきれて、名家の老人に殴りかかったようなものだと思う。
吉良上野介の何を遺恨に思っていたのか、芝居のほうはともかく、史実のほうでははっきりしないらしい。
実は遺恨などなく、錯乱したという説もあるそうだ。「そこに吉良がいたからだ」。もしそうなら、吉良上野介のほうこそ、いい迷惑である。
ともあれ、近頃の子どもはすぐキレる、なんていうけれども、300年前の34歳の殿様だってキレたのである。カルシウムが足りなかったのでしょうか。
次に、残された浅野家臣の籠城か開城かだが、南條範夫の「大名廃絶録」(文春文庫、ISBN:9784167282219)によれば、江戸時代の除封削封大名は約二百四十家(!)もあるそうだ。そのうち、武装して抵抗した例は、幕末の長州藩を除いては一例もナシ。
南條範夫は書いている。
いかに幕府の武力が卓絶しているからとて、二百四十件に及ぶ除封削封において、ただの一家も、これに対して武力抗争を試みようとしたものがなかった事は、戦国の武士魂全く消失し去ったものとみるほかない。
城地収公に当って、籠城合戦説があったことは、元禄事件の歳の赤穂城の例によっても明らかであるが、いざとなると、それは実現せず、すべて平和裡に開城している。
もちろん、籠城しても勝ち目はない。
勝ち目がないのになぜ籠城するかというと、武士の意地を見せる、という一点だろう。
華々しく戦って、たとえ討ち死にしようとも、名を残そうというわけである。
じゃあ、なぜ籠城説は敗れ、開城に決まったかだが、恭順して、お家再興を願い出る、というのが、この時点での大石内蔵助の考えとされる。
しかし、家臣によっては他家への再就職のことも考えたのではないかと思う。
現代のドラマなら、「愛する人のために」などという、薄っぺらい言い回し(言い訳か)が出てくるところである。
さらには、これはあくまでわたしの想像だが、たとえ一時の勢いで主戦派の意見が勝っても、引きずられた人間の意気はあまり上がらないだろう。やる気のない籠城というのはカッコウよくない。
武士の意地を見せるには、カッコウよくなければならない。寝返りだの、逃亡だのが出て、最後はグダグダになることを恐れたのではないか。
どうも長くなりそうだ。続きは明日。
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「今日の嘘八百」
嘘五百二十一 浅野内匠頭、本当は「峰打ちじゃ。安心いたせ」と笑いをとるつもりだったのだが。